1943年、日系二世のジョセフ・イチウジは、大きな荷物を抱えて母親に別れのキスをし、父親から激励の言葉を受け、米アリゾナ州の強制収容所を後にした。イチウジはのちに、米陸軍兵として、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線へ送られることになる。
「自分が忠実な米国市民であり、国のために奉仕する意思があることを示すチャンスでした」。1999年にイチウジは当時を振り返ってそう語った。「これが収容所を出る唯一の方法だと思っていました」
1945年4月、イチウジが所属する日系人部隊は、ドイツのダッハウ強制収容所をナチスの手から解放する。イチウジの口述記録は、日系米国人の退役軍人による回想記録を収集・保存する「ハナシ口述歴史保管庫」に収められている。(参考記事:「強制収容された日系米国人の生涯を追う写真家 写真12点」)
イチウジをはじめ多くの日系米国人が、祖先の国である日本が米国と敵対するなか、自ら進んで米軍兵に志願した。だが、彼らは入隊する前からずっと人種差別にあっていた。入隊後も(多くは陸軍だった)米国では約12万人の日系人が強制収容され、アジア人差別がまかり通っていた。そういう国のために、彼らは戦地へ赴いた。
移民と日系人排斥活動
1880年から1907年にかけて、日本からの移民の波がハワイをはじめとする米国に到達した。その一部は、第二次世界大戦以前から米軍に入隊していたが、そこで人種差別を受け、アジア人への市民権を拒否する法律のせいで、市民権を取得することもできなかった。
第一次世界大戦が終わってから第二次世界大戦が始まるまでの間に、米国内では反移民感情が高まり、1924年には日本からの移民を全面的に禁止する移民法が制定された。ただし、米国生まれの二世には憲法により市民権が与えられた。
第二次世界大戦の前に、陸軍は日本語ができる二世を通訳や翻訳者として採用することを検討していた。ところがふたを開けてみると、日本語を十分に話す二世は意外と少ないことが明らかになった。潜在的候補者を調査した結果、「日本からの移民の子どもは、思ったよりもはるかにアメリカナイズされていたことが判明した」と、歴史家のマサハル・アノは書き残している。