米国による砂糖への投資は急増し、それとともに米国からの干渉も増加した。1887年には、いずれもハワイ王国生まれの法律家かつ政治家であるローリン・サーストンとサンフォード・ドール(「パイナップル王」として知られるジェームズ・ドールのいとこ)に率いられた有力な白人サトウキビ農場主たちが、カラカウアの浪費スキャンダルに乗じて武力蜂起し、国王からほとんどの権力を奪う新憲法への署名を迫った。
「銃剣憲法」とも呼ばれるこの憲法では、外国人の投票権が認められ、アジア人労働者や低収入者の投票権は制限された。その結果、75%にあたる先住民の投票権が奪われた。一方、ハワイ連盟と名乗る白人農場主たちは、少数派でありながら実質的に島を支配することになった。
経済危機と政治危機がハワイを襲ったのは、1890年代のことだ。米国で、ハワイの砂糖産業と競合する他国の砂糖税を撤廃する法案が可決されると、砂糖の価格が急落する。農場主たちは、経済を安定させ、王国に対する優位性を保とうと、ハワイの米国への併合を訴え始めた。
無血のクーデターから二転三転
1891年、カラカウアが死去し、妹のリリウオカラニが後を継いだ。1893年、リリウオカラニは、兄が署名した銃剣憲法に替えて、在留外国人の投票権を取り消して国王の権力を強化する憲法を制定しようとした。
それに対し、サーストンと武装勢力はリリウオカラニの宮殿近くに集まり、女王の退位を要求した。だが、米国公使ジョン・スティーブンスの要請により、米国人の人名と財産を守る名目で海兵隊がオアフ島に上陸すると、リリウオカラニは守備隊に降伏を命じ、この機に乗じてクーデター派は王制の廃止を宣言。戒厳令を敷いて宮殿に米国の旗を掲げた。
これは実質的に無血のクーデターで、ドールが率いる臨時政府によって米国併合の動きは加速すると見られた。1893年2月には、ベンジャミン・ハリソン米国大統領も併合条約に署名した。
しかし、それから1カ月も経たずにグローバー・クリーブランドが米国の大統領に就任すると、条約を撤回し、ジェームズ・ブラントらをハワイに送ってクーデターの調査を行った。ブラントは報告書にこう記した。「人民の感情は間違いなく女王を支持し、臨時政府と併合に反対している」
会員向け記事を春の登録キャンペーンで開放中です。会員登録(無料)で、最新記事などメールでお届けします。
おすすめ関連書籍
いちばん美しい世界の絶景遺産(ナショナル ジオグラフィック)
世界の美しい場所は、ずっと見ていられる。唯一無二の美しい場所を手元においていつでも眺めよう。 〔全国学校図書館協議会選定図書〕
定価:2,200円(税込)