世界でも有数の「船の墓場」として知られる南アフリカの喜望峰沖で、嵐に翻弄される船。(PHOTOGRAPH BY CHRONICLE, ALAMY STOCK PHOTO)

 スエズ運河で座礁したコンテナ船は、3月29日にようやく離礁に成功した。しかし、立ち往生していた船の多くはさらなる遅延を避けるため、代替手段を選択した。いくつかの船は、南アフリカの喜望峰を回るルートへ向かい始めた。運河がふさがれていた間の損失額は、1時間当たり4億ドル(約440億円)に上るとみられている。

 喜望峰を回るとなると、行先によっては航海日数が少なくとも10日、航海距離は数千キロも延びる恐れがある。おまけに暴風や暗礁など、昔から喜望峰は船の墓場として恐れられてきた。

「何世紀もの間、喜望峰は海難事故が続発するスポットでした」と、南アフリカのケープタウンにあるアフリカ海洋海中研究所の所長で海運考古学者のブルーノ・ウェルツ氏は語る。「こちらを回るほうがはるかに危険ですから、リスクを計算したうえでの迂回です」

 ウェルツ氏や他の研究者らは、アフリカ南部で発生した海難事故について研究を行い、南アフリカ沖でこれまで少なくとも2000の船が難破したと推定している。海岸線1キロにつき、1件発生している計算になる。その多くは、大航海時代にインドやアジアを目指したヨーロッパの船だった。

 なかでも最初期の記録は「ソアレスの難破」で、16世紀に南アフリカ沖で初めて難破したポルトガル船の事故だった。その後も、ヨーロッパと東方の植民地を往復していた数百隻の船が、同じ海域で事故に遭っている。1647年には、オランダ船ハーレム号が南アフリカのテーブル湾で難破した。その生存者たちが築いた前哨基地が、今のケープタウンになった。

嵐の岬

 喜望峰という名は、その過酷な歴史に端を発すると考えられている。1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアスが喜望峰を回ってインドへ到達する航路を発見した。伝説と事実が入り混じった記録によると、ポルトガルへ帰還後、当時の国王ジョアン2世に旅の報告をしたとき、ディアスは岬の周囲の状況があまりに厳しかったため、ここを「嵐の岬」と呼んでいた。

 だが、実際に船に乗って風にもまれた経験のないジョアン2世は、ディアスの話よりもインドの市場へ到達できるというニュースに喜び、これを「喜望峰」と名付けるよう命じた。

ギャラリー:喜望峰航海の危険な過去 画像5点
船乗りたちの間で語り継がれる幽霊船「フライング・ダッチマン」は、喜望峰沖で沈没したとされている。写真の絵は、米国の月刊誌「ハーパーズ」に掲載されたフライング・ダッチマン伝説の一場面。(Photograph by Delaware Art Museum, Museum Purchase/ Bridgeman Images)
米国の週刊誌「コリアーズ」に掲載されたフライング・ダッチマンの船長の絵。この船長は、最後の審判の日まで海をさまよう運命を定められた。(Photograph by Delaware Art Museum, Museum Purchase/ Bridgeman Images)

 ディアスの呼び名のほうがふさわしいと思った船長は多かったに違いない。統計的にも喜望峰近海は、何もない外洋に比べて船の沈没する確率が高い。北極海でタイタニック号が沈没する前年の1911年、客船ルシタニア号が、ケープタウンの灯台を大陸の最南端と勘違いし、船の舵を大きく切りすぎて、陸地に衝突した。その前にも多くの船が陸地を見誤って事故に遭っていたため、後に灯台は南へ移された。

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