沈んだ体に何が起きるのか

 まず初めに、海に入った死体はどうなるのかを理解する必要がある。

 いったん水に入ると、沈む死体と浮く死体がある。そのどちらになるかによって、その後の運命が変わってくる。おぼれた人は肺の中に水が入って沈み、逆に肺に空気が詰まった死体は、それが浮き袋のような役割をして水に浮くと思われがちだが、現実はそれほど単純ではない。

 米軍病理学研究所のE・R・ドノヒュー氏は1977年に、1942年のデータを使って『Human Body Buoyancy: A Study of 98 Men(人体の浮力:98人の実験)』と題した論文を発表した。20歳から40歳までの健康な米国海軍の男性兵士98人を一人ひとり水の中に入れ、肺が空気で満たされた状態と、できるだけ空気を吐いた状態で体重を測る。水中で肺に空気が全く入っていない状態で体重測定のために待つのは簡単なことではないが、彼らは屈強な海軍兵だ。

 肺に空気が入った状態では、全員が浮いた。しかし、肺の空気をすべて吐き切ってしまうと(死体もこの状態になる)、ほとんどの被験者が淡水では沈み、浮いたのは7%だけだった。一方、海水の場合は体が浮く確率が高くなる。ドノヒュー氏は、服を着ていない死体であれば69%が海水で浮くと推定した。

 ただし、重い服を着ていたり、肺に水が入るなどして少しでも重みが加われば、体は沈んでしまうものだ。全体的には、死体は浮くよりも沈む傾向にあり、最もよく沈むのは溺死体であることをデータは示している。

 沈んだ体は、まっすぐ海底へ降りていく。しばらくすると、陸上の死体と同じように膨張して浮いてくることもあるが、いつもそうなるとは限らない。深い湖や海では、二度と浮き上がらないことがある。深い水の底では、水温が低いため死体の腐敗が進まず、さらに水圧が高いので体の膨張が抑えられ、体は浮き上がることができない。水に沈んだままの体は、組織が変性して死蝋化(蝋状あるいは石鹸状になること)し、数年、時には数百年も低酸素の環境でそのまま保存される。

 ヤゼジアン氏が検視したセイリッシュ海の足は、まさにこの死蝋で覆われていた。つまり、長い間海底にとどまっていたことを示している。これによって、体の他の部分はどこにあるのかという謎の説明がつく。海底に沈んだまま今もそこに横たわっているのだ。

 では、なぜ足だけが浮かんできたのだろうか。

足だけが浮かび上がってきた理由は

 体を残して足だけが漂流した理由を理解するには、水中で人間の死体がどのように分解されるのか、足はそんなに外れやすいものなのかを知る必要がある。米国では、複数の法医学研究所で死体の分解過程を研究しているが、いずれも陸上での研究ばかりだ。誰も、海まで死体を運んで行って水中に落とした者はいない。

 だが、あきらめるのはまだ早い。カナダでは2007年夏、サイモン・フレイザー大学の法医学者ゲイル・アンダーソン氏が、カナダ警察研究センターの依頼で、殺された被害者の体が海中でどのくらい早く分解するかを研究していた。ただし、倫理規定により人間の死体は使えなかったため、ブタの死体を使用した。ブタは人間の体と大きさが同程度で、生物学的にもよく似ていることから、法医学研究では人間の死体の代わりに使われることがある。

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