精神病院へ潜入取材、調査報道の先駆者ネリー・ブライ

男性主体のジャーナリズム界に飛び込み、脚光を浴びた女性ジャーナリスト

2021.03.08
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ネリー・ブライ(1890年)(BRIDGEMAN/ACI)
ネリー・ブライ(1890年)(BRIDGEMAN/ACI)
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 19世紀後半、ほとんど男性しかいないジャーナリズムの世界に飛び込んで、女性ジャーナリストの草分けとなった人物がいる。ネリー・ブライだ。彼女は社会悪や腐敗にスポットライトを当て、しばしばその身の危険にさらして記事を書き、重要な改革のきっかけを作った。

 1885年、ピッツバーグの新聞『ピッツバーグ・ディスパッチ』に「若い女性にとって良いこと」という記事が掲載された。働く女性は「怪異」であると主張するこの記事を読んで激怒した21歳のエリザベス・ジェーン・コクランは、記事を激しく非難する手紙を書いて同紙に送った。その内容に感銘を受けた編集者は、ぜひ会いたいので手紙の主は名乗り出てほしい、とする広告を出した。

 エリザベスが名乗り出ると、編集長はその場で彼女を記者として雇い、最初の記事は「Orphan Girl(孤児の少女)」というペンネームで掲載された。その後すぐに、彼女はピッツバーグの作曲家スティーブン・フォスターの人気曲にちなんで、ペンネームを「ネリー・ブライ」に改めた。

ジャーナリストとしての決意

 彼女は私生活でも「ネリー・ブライ」を名乗った。最初のペンネームが「孤児の少女」だったのは、彼女の生い立ちを反映している。彼女は1864年に米ペンシルベニア州ピッツバーグ近郊の比較的裕福な家庭に生まれたが、6歳のときに父親が死去し、母親が再婚するも虐待でうまくいかず、経済的に困窮した。

 授業料を払えず15歳で学校を退学した彼女は、その後5年間、母親と一緒に下宿屋を経営した。このときの苦労から、彼女の心に成功への野心が芽生えたと同時に、労働者階級の家庭の苦しみに人々の目を向けさせたいという、ジャーナリストとしての決意がはぐくまれた。

『ディスパッチ』紙の記者となったブライは、女性向けの記事しか執筆させてもらえないことに苛立ちを感じるようになった。そこで単身メキシコに渡り、特派員として働きはじめた。1880年代に女性がそのような働き方をするのは前代未聞のことだった。

 彼女はメキシコでさまざまテーマの記事を書いたが、メキシコ社会の腐敗や農民や労働者の搾取を取り上げた記事がメキシコ政府の怒りを買った。彼女は逮捕されるのを避けるために出国し、ピッツバーグに戻ってきたが、『ディスパッチ』紙では再び女性向けの記事を書かされた。幻滅した彼女は、もっと大きな舞台を求めてニューヨークへと旅立った。

不幸な女性を閉じ込める倉庫

 ブライがニューヨークにやって来たのは、ジャーナリズムが大きく変わろうとしていた時期だった。各新聞社は、センセーショナルな記事で読者の心をつかみ、部数を増やす方法を模索していた。ハッタリをきかせて『ニューヨーク・ワールド』紙のオフィスに乗り込んだというブライは、ここで見事に職を得た。

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