古代エジプト最後の王、クレオパトラの子カエサリオンの悲劇

カエサルとの間に生まれた、プトレマイオス朝最後のファラオ

2021.05.01
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 カエサリオンに運が回ってきたのは、紀元前42年に、マルクス・アントニウスがローマの執政官としてエジプトにやってきたときだった。アントニウスは当時、同じく執政官だったオクタウィアヌスを倒す方法を探っていた。紀元前41年、クレオパトラはアントニウスに呼び出されてタルソスに赴く。

 国と息子の命運をかけた会見に臨んだクレオパトラを見て、アントニウスは恋に落ちた。このふたりの関係は、歴史上最も情熱的な恋愛物語のひとつとして後世に伝えられている。

カエサリオン(左)とクレオパトラ(右)が描かれたカルナック神殿の碑。元は紀元前8世紀に作られたものだが、クレオパトラの在位13年目に、古い文字の上にクレオパトラの将軍の一人を称える内容の碑文が刻まれた。トリノ、エジプト博物館所蔵。(DEA/ALBUM)

 アントニウスは、紀元前41~40年にかけての冬を、エジプトでクレオパトラと過ごした。ふたりの間には男女の双子が生まれ、アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネと名付けられた。その後さらに、もうひとり男の子が生まれ、プトレマイオス・ピラデルポスと名付けられた。この時期に、クレオパトラは王国を広げ、カエサリオンのためにシリア南部、キプロス、そしてアフリカ北部を領土に加えた。

 紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアの競技場でクレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を行い、カエサリオンに「諸王の王」という称号を与えた。また、カエサリオンはユリウス・カエサルの正統な息子であると公認した。クレオパトラとの間に生まれた3人の子どもたちにも王族の称号を与え、アレクサンドロス・ヘリオスには領土と王国を約束した。

 ところが、これに激怒したオクタウィアヌスは、クレオパトラとアントニウスに対して宣戦布告する。紀元前31年9月2日、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスの軍に敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアへ撤退した。息子の身を案じたクレオパトラは、教育係とともにカエサリオンを町から去らせた。

紀元前1世紀に花崗岩で作られたファラオの像。若きカエサリオンのものと考えられている。(ZUMA PRESS/ALAMY/ACI)

 カエサリオンは南へ向かい、船に乗ってアラビアからインドへ逃れようとした。ところが港への途上で、ローマ軍がアレクサンドリアに入り、母親とマルクス・アントニウスがふたりとも死んだとの知らせを受け取った。そのまま旅を続けていればカエサリオンの命は助かったかもしれないが、孤児になったカエサリオンにオクタウィアヌスが情けをかけてくれるかもしれないと教育係に説得され、カエサリオンは戻ることにした。

 実際、オクタウィアヌスは若きカエサリオンの命を助けることも考えた。しかし、「カエサルが何人もいるのは不適切だ」と側近に言われ、心を変える。

 紀元前30年8月、オクタウィアヌスに面会するためにアレクサンドリアに到着したカエサリオンは、直ちに処刑された。ローマとエジプトをつなぐファラオの夢は潰え、古代エジプトのプトレマイオス朝は、カエサリオンの死とともに滅亡した。

【この記事の写真をもっと見る】ギャラリー:最後のファラオ、クレオパトラの子カエサリオンの悲劇 あと3点(写真クリックでギャラリーページへ)
クレオパトラの命により、デンデラ神殿の壁に刻まれたクレオパトラとカエサリオンの巨大レリーフ。(SCIENCE SOURCE/AGE FOTOSTOCK)

文=JUAN PABLO SÁNCHEZ/訳=ルーバー荒井ハンナ

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