古代エジプト最後の王、クレオパトラの子カエサリオンの悲劇

カエサルとの間に生まれた、プトレマイオス朝最後のファラオ

2021.05.01
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ローマとエジプトの子

 カエサルは、エジプトに2カ月間滞在してクレオパトラのもてなしを受けた後、ローマへ戻っていった。この時にクレオパトラは妊娠し、紀元前47年に男の子(カエサリオン)を生むと、父親はユリウス・カエサルであると公言した。エジプトの司祭らも、アメン神がエジプトの王子の父親となるために、当時世界で最も強大な権力を持っていたカエサルという人間の姿で現れたのだと説いて回った。

 紀元前46年末、今度はクレオパトラがカエサルの招きに応じてローマを訪れた。きらびやかな宮廷の従者を大勢従えたクレオパトラが、カエサリオンを連れてローマに到着すると、ローマ人は口々に、ユリウス・カエサルにそっくりの子どもだと言った。

 カエサルの部下だったマルクス・アントニウスも元老院に対して、カエサルが周囲の者にカエサリオンを自分の子として認めていると証言した。それが事実であれば、カエサリオンはこのとき唯一生存していたカエサルの子どもだったことになる。カエサルには他にユリアという娘がいて、ポンペイウスと結婚していたが、紀元前54年、出産時に亡くなっていた。

フィラエ島で出航の準備をするクレオパトラ。19世紀の画家フレデリック・アーサー・ブリッジマンによる絵画。(DEA/ALBUM)

 ローマ市民の反応は冷めていたが、ユリウス・カエサルはローマとエジプトの結びつきに期待を寄せていた。ウェヌス・ゲネトリクス神殿にクレオパトラの像を建てさせたカエサルはこの時期、帝政ローマへの移行を始めるべきときにあると考えていた。巷では、カエサルがアレクサンドリアへの遷都を企てているのではという噂も広がった。

 だが、その野望が実現することはなかった。紀元前44年3月15日、カエサルが暗殺されたのだ。カエサリオンを自身の後継者と正式に認めることはなく、遺書には大甥のガイウス・オクタウィアヌスを後継者にすると書かれていた。

 カエサルが殺されたときローマに滞在していたクレオパトラは、自分たちの命も危ないと気付き、カエサリオンを連れて直ちにエジプトへ戻ることにした。

ギャラリー:最後のファラオ、クレオパトラの子カエサリオンの悲劇 画像10点(写真クリックでギャラリーページへ)
クレオパトラを王座に戻すユリウス・カエサル。ピエトロ・ダ・コルトーナによる1637年の油彩画。リヨン美術館所蔵。(NICO TONDINI/GETTY IMAGES)

カエサルの死後

 アレクサンドリアに戻るとすぐに、クレオパトラは権力の統合に乗り出した。史料によると、弟で共同統治者だったプトレマイオス14世を毒殺し、幼い息子のカエサリオンを共同で王位につけた。こうして、プトレマイオス15世カエサルが誕生する。

 ローマのオクタウィアヌスは、幼きファラオとの血縁関係を否定した。これに合わせて、故ユリウス・カエサルの右腕とされたガイウス・オッピウスも、カエサリオンはカエサルの息子にあらずと書いた書物を発表した。ローマの新たな支配者への態度には気をつけろ、というクレオパトラへの警告に他ならなかった。

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