一列に車輪を並べるやり方を考え直したのは、パリの発明家ルイ・ルグランだった。かかとと、指の付け根のふくらみのあたりに、2個ずつ2列の車輪が付いた、いわゆるクワッドスケートを設計したのは彼だ。
ルグランのスケートは、1849年にパリのオペラ座で上演されたジャコモ・マイアベーアのオペラ、『預言者』で使用されて大きな反響を呼ぶ。その後、同オペラがロンドンのコヴェントガーデンで上演されたことで、ローラースケート人気はさらに高まった。
ルグランのスケートは、その後何十年にもわたるローラースケートの標準的なデザインの先駆けとなる。
米国の発明家ジェームズ・レナード・プリンプトンによって改良された4輪型デザインは、ローラースケートをより簡単で、より楽しいものにした。ニューヨークで機械工場を経営していたプリンプトンは、医師から健康増進のためにアイススケートを始めるように勧められた。暖かい季節にもスケートをするため、彼はオールシーズンで使用できるローラースケートを発明したのだった。
1863年に特許を取得した彼の「ロッカースケート」は、車輪が靴底に固定されておらず、走行や方向転換が簡単だった。2組の車輪はそれぞれゴム製のクッションとともに回転軸に取り付けられ、体重を移動するだけでスケートが傾き、方向転換できるようになっていた。
プリンプトンの発明から10年以上後のこと、英国の文芸週刊誌「オール・ザ・イヤー・ラウンド」はこう書いた。「このスケートは、これまでに発明されたあらゆる製品と比較して圧倒的に優れており、特許権の侵害が大量に発生している」。様々な改良が加えられながらも、4輪モデルは100年以上の間、最も人気の型であり続けた。
パリを魅了した「車輪の狂乱」
プリンプトンの改良により誰でも簡単に滑れるようになったおかげで、若者の間で最初のローラースケートブームが巻き起こる。1860年代以降、西欧と米国の都市部にローラースケート場が登場し始めた。
ローラースケートを洗練された娯楽として認識してもらうべく、プリンプトンはこれを大衆のものとしてではなく、若き紳士淑女のための「きちんとした」アクティビティとして宣伝した。オーケストラの生演奏と、まだ珍しかった電飾が用いられて、ローラースケート場は最新の世紀末ファッションが彩る社交の場となり、舞踏場と競い合うほどの人気を博した。
1876年の週刊誌「ル・モンド・イラストレ」では、パリを魅了した「車輪の狂乱」が取り上げられ、ロンドンの新聞ではローラースケートの愛好家たちが「リンクマニア(rinkomaniacs)」や「リンキュアリスト(rinkualists)」などと呼ばれた。
医療業界はこうしたローラースケートの影響を評価せねばと感じたようだ。科学雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」は1885年、「磨かれた床の上で推進力のあるふらふらとした動きを行っていた」人々のうちで「病理学的な結果」の割合は小さい、と結論づけている。
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