新型コロナ感染者の中には、衝動的あるいは不合理な行動をとるようになった人もいる。50歳の元海兵隊員でドキュメンタリー写真家のアイバン・アガートン氏もその一人だ。2021年初頭に新型コロナから回復したあと、被害妄想的になった。人に尾行されていると恐れ、自宅の外にSWAT(特別機動隊)が陣取っていると思い込んだ。結局、精神科病棟に2度も入院することになった。

 新型コロナによる精神症状は、時間がたてば治癒する場合もある。アガートン氏も、6月までに完全に回復したという。しかし、症状がいつまで続くかは誰にもわからない。2021年5月11日付けで医学誌「Journal of the Neurological Sciences」に発表された論文によると、新型コロナで入院した395人を対象に調査したところ、91%が、退院から半年経っても認知障害、疲労、抑うつ、不安、睡眠障害、日常生活に戻れないなどの問題を抱えていたことがわかった。

疾患や外傷で認知機能が変化する

 医療従事者や研究者は、こうした症状の治療法を模索しているが、それにはまず、このような症状が起こるしくみを解明する必要がある。

 1906年に精神科医で神経解剖学者のアロイス・アルツハイマーが、ある女性患者の行動の変化を脳の変化と結びつけて以来(この疾患は、のちに「アルツハイマー病」と呼ばれるようになった)、ハンチントン病、パーキンソン病といった神経変性疾患だけでなく、ライム病、エイズなどの感染症まで、多くの疾患が人格の変化や気分障害を引き起こすことが明らかになった。

 新型コロナ後遺症による行動変化の多くは、交通事故の負傷者や、アメリカンフットボールやラグビーなどのコンタクトスポーツで脳震盪(しんとう)を起こした人、戦場で負傷した兵士などの外傷性脳損傷による行動変化ともよく似ている。前頭葉の損傷は、計画性やマルチタスクといった実行機能を損なう可能性がある。記憶力や自己認識も低下し、自分が何を失ったか自覚できていない患者もいる。

 ボストン大学のマッキー氏によれば、頭に傷を負うと、若く、穏やかだった人でも感情をコントロールできなくなることがあるという。氏は、コンタクトスポーツをする17歳の運動選手が認知機能に変化をきたした例を診た経験があるといい、12歳未満でフットボールをするとリスクが高くなると指摘している。

新型コロナによる脳損傷

 これらの症状に共通するのは、長引く脳の炎症だ。脳炎は頭部の外傷や神経変性疾患に伴って起こり、脳細胞を減らしたり、脳に悪影響を及ぼしたりすることがわかっている。

 炎症自体は、ウイルスなどの侵入者を排除する免疫の正常な反応だ。免疫系が異物に対して攻撃を開始すると、炎症を引き起こす多くの免疫細胞が血流中を循環する。厄介なことに、新型コロナ感染症やその他の疾患では、これらの免疫細胞が、通常は通り抜けられない血液脳関門(血液中から脳組織への物質の移行を防ぐしくみ)を突破してしまう可能性がある。

 米カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学大学院の運動障害プログラムを率いるジェフ・ブロンステイン氏は、炎症が制御不能に陥るとニューロン(神経細胞)を殺してしまうかもしれないと話す。「新型コロナ感染による神経学的症状のほとんどは、炎症や免疫反応を介した間接的な影響の結果であるように思われます」

 炎症は脳の代謝も阻害しているようだ。研究者らは、炎症がセロトニン(気分、食欲、睡眠を調節する神経伝達物質)の流れを妨げ、代わりにニューロンにとって有害な物質を体に作らせているのではないかと考えている。

 ボルドリーニ氏らは、新型コロナで死亡した患者や実験動物の脳を調べたところ、海馬に存在する新しいニューロンの数が、通常の10分の1程度しかないことがわかった。海馬は側頭葉の奥深くにあり、学習と記憶に重要な役割を果たす部位だ。論文は米国立衛生研究所(NIH)の査読前論文を投稿するサーバに2021年10月29日付けで公開された。

「新型コロナ感染によってこれらのニューロンが失われているのを見たとき、ブレイン・フォグのことがよくわかりました」とボルドリーニ氏は言う。氏のチームは、呼吸や血管運動、嚥下(えんげ)などを制御する延髄という部位の損傷も発見しており、今後は他の脳領域でも研究を続けるつもりだとしている。

次ページ:脳細胞に直接感染の証拠も

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