日本の年末の風物詩 第九合唱の意外なルーツ

19世紀から歌われるようになった第九が、年末恒例の合唱曲となるまで

2020.12.20
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第一次大戦中、日本で捕虜となっていたときに撮影された祖父のヘルマン・ハーケ氏の写真を手に取るスザンネ・ハーケ氏。ヘルマン氏らドイツ人捕虜は、1918年、徳島県の坂東町(現鳴門市)の捕虜収容所で、ベートーベンの交響曲第九番を演奏した。(PHOTOGRAPH BY SILAS STEIN, PICTURE ALLIANCE/GETTY IMAGES)
第一次大戦中、日本で捕虜となっていたときに撮影された祖父のヘルマン・ハーケ氏の写真を手に取るスザンネ・ハーケ氏。ヘルマン氏らドイツ人捕虜は、1918年、徳島県の坂東町(現鳴門市)の捕虜収容所で、ベートーベンの交響曲第九番を演奏した。(PHOTOGRAPH BY SILAS STEIN, PICTURE ALLIANCE/GETTY IMAGES)

戦時中の文化交流

 ヨーロッパでは人気が高かった第九だが、アジアで演奏されたのはそれから1世紀ほど後のことで、しかもその会場となったのは、これ以上ないほど意外な場所だった。第一次大戦中、日本は英国と同盟を結び、ドイツ占領下の中国の青島で敵軍を捕虜にした。およそ1000人のドイツ兵は、徳島県の小さな町、坂東町(現鳴門市)に移送された。普段はヨーロッパ人の捕虜ではなく、お遍路さんを迎えている町だ。

 この町にあった板東俘虜(ふりょ)収容所では、所長が捕虜に対して、店舗の営業、新聞の発行、音楽の演奏などの活動を奨励していた。1918年6月1日、ドイツ人捕虜のヘルマン・ハンゼンが、収容所内で組織されていた45人編成の徳島オーケストラを指揮して、一部は手作りの楽器を使用しつつ、捕虜の男性ばかり80人の合唱団も結成して「第九」を演奏した。クラシック音楽のパトロンとしても知られ、貴族院議員もつとめた徳川頼貞がこのコンサートの噂を聞きつけ、数カ月後、再演を聞くために収容所を訪れた。ちなみに、東京音楽学校(現東京藝術大学)に所属していた日本の音楽家によって初めて第九が演奏されたのは、1924年のことだ。

 第二次世界大戦中の1943年12月には、東京音楽学校の学徒出陣壮行会で「歓喜の歌」が演奏された。戦時中、日本の帝国主義者は愛国意識高揚のために「歓喜の歌」を利用した。

 ところで、第九には、ヒトラーのお気に入りの交響曲という、ありがたくない称号もある。「1824年の初演以来、第九は多くの運動や個人を魅了してきました」と、キャンデール氏は言う。「その中でも最も悪名高いのがヒトラーであり、彼は自分の誕生日には第九を演奏させていました。ヒトラーはこれをアーリア人の音楽だと考えていましたが、『歓喜の歌』の歌詞の内容を踏まえれば、これは奇妙なことです」。この歌には、「すべての人々は兄弟となる」「この口づけを全世界に」といったフレーズがあるからだ。「どうすれば、ここにアーリア人の人種的優位性を読み取ることができるのでしょうか」

 1970年代のチリ。ピノチェトの独裁政権下では、女性たちが路上や強制収容所内で、スペイン語で「歓喜の歌」を歌った。1989年、中国北京の天安門広場で行われた学生主導の抗議行動では、拡声器から第九が大音量で流されていた。

 同じ年の12月25日、ユダヤ系米国人の伝説的な指揮者レナード・バーンスタインが、ジャンダルメンマルクト広場に立つ荘厳な新古典様式のコンツェルトハウスで第九を指揮し、ベルリンの壁崩壊を祝福した。この際、バーンスタインが「フロイデ(喜び)」という言葉を「フライハイト(自由)」に替えていたのは有名な話だ。

「この交響曲には、打ちひしがれた人々と打ちひしがれた世界を癒やす力があるのです」と、キャンデール氏は言う。

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