日本の年末の風物詩 第九合唱の意外なルーツ

19世紀から歌われるようになった第九が、年末恒例の合唱曲となるまで

2020.12.20
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2006年2月、東京の会場でベートーベンの交響曲第九番「歓喜の歌」(喜びの歌)を合唱する5000人のアマチュアの歌い手。同胞愛と調和をテーマとしたこの曲を合唱することは、日本では長い間、年末の風物詩となってきた。(PHOTOGRAPH BY TOSHIFUMI KITAMURA, AFP/GETTY IMAGES)

 四国にあった捕虜収容所が、「世界最大級の合唱会発祥の地」だと聞けば、意外に思う人は多いだろう。第一次世界大戦が暗い影を落としていた時代に、その収容所ではベートーベン作曲の交響曲第九番が演奏された。ありあわせの楽器で行われたこのときの演奏は日本人の心をとらえ、今もなお人々から愛される年末の風物詩の誕生につながった。

 毎年12月、日本各地では平和、希望、喜びのメッセージが込められた交響曲「第九」の演奏会が、何百回と開催される。会場はショッピングモールから公民館までさまざまだ。そして、たいていは、第四楽章の「歓喜の歌」(「喜びの歌」)が演奏される。

 特に注目度が高い演奏会が、アマチュアやプロの歌い手1万人が大阪城ホールに集って開催される「サントリー1万人の第九」だ。「日本人が第九との間に築いている関係は、社会的なつながりと音楽的なつながりとが織り合わさって一つになったものです」と、指揮者のジェフリー・バーンスタイン氏は言う。「彼らにとって『歓喜の歌』を歌うことは、つながりを持つことなのです」(参考記事:「音楽は人々を結束させるツール?」

 しかし新型コロナウイルスが大流行している今年は、大半のグループが合唱を中止している。はたしてこれが、アジアにおける第九の覇権の終焉となるのだろうか。

歓喜の歌はこうして生まれた

 ベートーベンは1770年12月、ライン川沿いにあるドイツの古い街ボンに生まれた。1792年にオーストリアのウィーンに移り、有名作曲家ハイドンに師事した。ベートーベンはウィーンで、アン・デア・ウィーン劇場や、現在は博物館となっているバロック様式の邸宅パレ・ロブコヴィッツで演奏するなど、目覚ましい活躍を見せたが、その一方で私生活は混乱を極めていた。

「ベートーベンは生涯を通じて病に苦しめられました。愛を求めても、それを見つけることは叶わず、家族を求めても、それを手に入れることはできませんでした」。映画『Following the Ninth(第九を追って)』を監督したケリー・キャンデール氏はそう語る。「ベートーベンは音を操る類まれな才能を持っていましたが、聴力を失いました」

 研究者の中には、ベートーベンは生涯をかけて第九を書き続け、1827年に亡くなる前に完成させたと言う者もいる。第九を作るにあたり、ベートーベンに影響を与えたのはドイツの詩人、哲学者のフリードリッヒ・シラーの作品だ。シラーは1785年、同胞愛、喜び、自由という普遍的なメッセージを謳った「歓喜に寄す」という詩を書いている。このシラーの言葉を第四楽章に取り入れて書き上げられた第九は、1824年にウィーン、ケルントナートーア劇場にて、世界初の合唱付き交響曲として初演された。

ギャラリー:年末の日本の風物詩 ベートーベン第九の合唱、写真5点
東京タワーへと伸びるように見えるライトが、東京・六本木のけやき坂通りを彩る。日本では、こうした装飾や合唱など、西洋式のクリスマスの習慣が数多く取り入れられている。(PHOTOGRAPH BY WAYFARERLIFE PHOTOGRAPHY, GETTY IMAGES)

次ページ:すべては徳島の捕虜収容所から始まった

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