英国支配に抵抗、伝説となったインドの勇敢な王妃

ジャーンシー藩王国の戦う王妃、ラクシュミ・バーイーの物語

2020.10.18
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戦う王妃

 ラクシュミ・バーイーはインド人にとっての英雄で、英国人にとっては悪役だ(「インドのイゼベル」と呼ばれることもある)。この相反する解釈は、1857年6月の出来事に起因する。1857年6月、ジャーンシー藩王国に暮らす英国人60人以上が南進してきたメーラトのセポイに虐殺された。大多数が女性と子供だった。

 ラクシュミ・バーイーは英国の役人に宛てた2通の手紙で、虐殺への関与を否定。セポイたちはラクシュミ・バーイーの言葉に耳を貸さなかったと説明し、「あのような行為の報いとして地獄に落ちる」ことを願うと述べている。東インド会社はこの訴えを信じなかった。

 1858年3月、ヒュー・ローズ率いる東インド会社の部隊がとりでを包囲するまで、ラクシュミ・バーイーはジャーンシーを統治し続けた。包囲後も、義勇兵を集めて砲撃に対抗。自ら機関銃で応戦し、壊れた壁を修理したが、2週間後、とりでは陥落した。

1850年ごろのラクシュミ・バーイーと言われているが、インドの学者たちはその真偽を疑っている。王族の盛装だが、当時はまだ摂政ではなく、写真が極めて希少な時代だったためだ。(AKG/ALBUM)

 ラクシュミ・バーイーは護衛に守られながら、夜の闇に紛れて脱出。その際、息子を背負っていたと伝えられている。4月上旬、英国軍がジャーンシーの占拠に動いた。ある兵士の記録には、「もちろん女性を除き、16歳以上は一人も見逃さない」よう命じられたと書かれている。兵士たちは命令に従い、5000人以上の命を奪った。

 ラクシュミ・バーイーはほかの反乱軍のリーダーたちと手を組み、カールピーの町を占領。しかし、こちらも陥落し、今度は要塞都市グワーリヤルを奪取した。このときすでにラクシュミ・バーイーは孤立していたが、ローズ率いる英国軍の反撃に立ち向かうため東に進軍。ここでラクシュミ・バーイーは最期を遂げ、反乱軍は敗北した。

 当時のインド総督であるカニング伯爵の報告によれば、ラクシュミ・バーイーは「(ターバンを巻いた)男性のようないでたちで、男性のように馬を乗りこなし」、第8軽騎兵連隊の騎兵に背中を撃たれた。ラクシュミ・バーイーが振り返り、反撃しようとしたとき、騎兵が剣を持って駆け抜け、致命傷を負わせた。戦いを終えたローズは宿敵に敬意を表し、「インド大反乱は1人の男性を生みました。そして、その男性は女性でした」と述べている。

ギャラリー:英国支配に抵抗、反乱の象徴となったインドの王妃 画像5点(画像クリックでギャラリーへ)
ラクシュミ・バーイーはグワーリヤル近郊で戦死した。グワーリヤルは1857年に発生したインド大反乱の激戦地。(JENS BENNINGHOFEN/ALAMY/ACI)

インド独立に与えた影響力、今も

 1857年のインド大反乱は、100年近くに及ぶ激しい闘争の始まりにすぎなかった。1940年代初め、インド国民軍が戦いを開始。「ジャーンシーの王妃連隊」はラクシュミ・バーイーに敬意を表した女性のみの部隊で、若い女性たちが自由を求めて戦った。

 インドが1947年に独立した後も、ラクシュミ・バーイーは影響を与え続けている。スバドラ・クマーリ・チョーハンの詩「ジャーンシーの王妃」は現在も、インド全土の学校で教えられている。その一節を紹介しよう。「ブンデーラの吟遊詩人から聞いた物語。彼女は男性のように戦った。彼女はジャーンシーの王妃だった」

文=ALESSANDRA PAGANO/訳=米井香織

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