ユーラシア大陸の草原地帯(ステップ)にかつて存在した遊牧国家。その崩壊が、数百年に及ぶ激しい闘争の時代をもたらしたのではないか。
シベリア南部でこの時代の遊牧民の墓を掘り起こした考古学者たちは、そう考えた。墳墓から、暴力の犠牲者と見られる遺骨が多数発見されたのだ。
ロシアとスイスの考古学チームは4年前から、ロシアのトゥバ共和国で埋葬のための墳墓(クルガンと呼ばれる)を発掘していた。「トゥンヌグ1」と名付けられたその墳墓は、遊牧民族スキタイが築いた初期の大規模なものだった。スキタイは、紀元前1100年ごろからヨーロッパとアジアの間にある広大なステップの大部分を支配していた。
墳墓の南端を発掘していたチームは、最初に墓が作られた時期よりもずっと後の時代、西暦100~400年の墓所を発見した。発掘を始めたころは、特に大きな発見を期待していたわけではない。当時の遊牧民の食生活や埋葬様式、寿命についてもっと詳しく知ることができればと思っていた。
ところが、スイス、ベルン大学の考古学者マルコ・ミレラ氏らがトゥンヌグ1から掘り起こした数十体分の遺骨を調べていくと、驚きの事実が浮かび上がってきた。「これほど暴力にまみれた民族の遺骨を見たことはありません」と、ミレラ氏は言う。「最初に見つけたときは、それほど驚きませんでした。ところが、次から次へと暴力を受けていた跡が出てきました。成人男性だけではなく、子どもまで、多くの人々が暴力にさらされていました」
9月16日付の『Journal of Physical Anthropology』に掲載された論文で、ミレラ氏らは100カ所以上に残されていた傷跡から、古代ステップの暴力的な社会を描き出した。小さな墓所に埋葬されていた少なくとも87人の遺骨のうち、20人以上に切り傷、矢じりや剣先で開けられた穴、殴られた跡などの傷が残っていた。犠牲者は子どもから老女まで幅があるが、ほとんどが10代前半から成人だった。
遊牧国家の興隆と崩壊
この調査結果は、シベリア南部で起こったことが遠く離れた古代中国にも影響を与えていたことを示す証拠にもなりそうだ。墓に埋葬されていた人々は、激動の時代を生きていた。その数世紀前、この地方は匈奴(きょうど)と呼ばれる遊牧国家に支配されていた。匈奴は南東へ向かって略奪を繰り返しながら勢力を伸ばしていた。万里の長城は、中国の皇帝がこの匈奴の脅威に対抗するために建設したものだ。当時の中国の文筆家たちは、隣人である遊牧国家を驚嘆と侮蔑の眼差しで眺めていた。
漢の歴史家、司馬遷は、紀元前1世紀に、匈奴に関して次のように書き残している。「平時には家畜の群れを牧し、狩猟によって生計を成すのが習わしだが、危機においては武器を手に取り、略奪と襲撃に打って出る。生まれながらに備わった彼らの気質のようだ」
西暦100年ごろに匈奴が崩壊すると、ステップ一帯は混乱に陥った。戦士たちは、力をつけ始めていた漢を襲うのではなく、仲間同士で争いを始めた。ベルン大学の考古学者で発掘責任者のジノ・カスパリ氏は、「トゥンヌグ1の遺骨から察すると、匈奴の滅亡によってこの地域の政治的安定が崩れ始めたのだろうと考えられます」と話す。
骨の傷が伝える暴力の痕跡
放射性炭素年代測定により、トゥンヌグ1の遺骨の年代は西暦100年ごろのものから数百年後のものまで、ばらつきがあることがわかった。つまり、一度の戦闘や大量虐殺で殺されたのではなく、小規模の奇襲や争いが長期間にわたって続いていたことを示している。
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