フランス、ボルドー大学の考古学者クリストファー・クヌーゼル氏は、「内輪でやったりやられたりを繰り返していたと思われます」と語る。クヌーゼル氏は研究には参加していないが、何世紀にもわたって使われていた墓でこれだけ多くの暴力の痕跡がみつかるのは珍しいと話す。「一度に多くの人が埋葬された共同墓地で見つかることはありますが、このように個別に埋葬されているような墓地ではほとんどありません」
暴力を受けても、骨に傷跡を残さずに死亡するケースも多いため、暴力による実際の死者数はもっと多いと推測される。古代の遺骨分析を専門とする生物考古学者たちは、目に見える傷が残っている遺骨が1体分あれば、他に3体が、骨に傷を残さない形で殺されただろうと推測する。「骨からわかることはごく一部です。多くの傷は、骨に痕跡を残しません」と、ミレラ氏は言う。
実際、トゥンヌグ1では、無傷の骨と骨の間に挟まっていた鉄の矢じりもいくつか見つかっている。軟組織に刺さったまま埋葬され、肉が分解されてむき出しになったのだろうと考えられる。
また、首に近い脊椎の前部分に切り傷がある男性や少年の遺骨も発見された。向かい合って格闘したり、自己防衛だったのであれば腕や上半身にも傷がつくはずだが、そのような傷跡は見当たらなかった。つまり、のどを切られて処刑されたか、何らかの暴力的な儀式が行われていたと思われる。「少なくとも一部の遺骨は、儀式で殺されたものと考えられます」と、ミレラ氏は説明する。
「ただ残虐なだけではなかった」
ステップの遊牧民にとって暴力は当たり前のことだったかもしれないが、過去の発掘では情け深い一面があったことも示されている。1990年代にトゥバの別の場所で似たような遺跡を発掘したアイルランド、クイーンズ大学ベルファスト校の考古学者アイリーン・マーフィー氏も、やはり外傷と暴力を示す遺骨を多数発見した。しかし、印象に残ったのは長期的なケアを受けていたことを示す遺骨だったという。
「子どものころに障害を負ったものの、成人した人も多くいました。ステップの人々は、ただ残虐なだけではなく、人を助ける思いやりの心も持っていました」。なお、マーフィー氏も今回の研究には参加していない。
スキタイが墳墓を作ってから1000年が経った時代に人々がここに死者を埋葬し続けていたという事実は、「ある程度の継続性を示しています」と、ミレラ氏は言う。「墳墓自体も、長いこと葬儀のために使用されていました。おそらく、特別な意味を持つ象徴的な場所だったのでしょう。どれほど長期にわたって使われていたのかを考えると驚きです」
トゥンヌグ1がまだ使用されていた西暦1世紀、匈奴が崩壊し、その強力な余波はアジアとヨーロッパにあった他の帝国をも襲った。その頃、匈奴から遠く離れたローマの文筆家たちは、中央アジアで戦闘好きの民族が台頭していると記録に残している。西へ向かって勢力を伸ばしたゴート族、アラン族、フン族の猛攻により、ローマ帝国は崩壊の危機へと追いつめられる。(参考記事:「アッティラ王が率いたフン族 残忍ではなかった?」)
遊牧民族の移動の背景には、トゥンヌグ1で発見された暴力の歴史が関係しているのだろうか。クヌーゼル氏はこう話す。「3~4世紀、各地で人の動きが活発になっていました。ステップがとても不安定になったため、多くの人が逃げ出したのかもしれません」