全米にある国立のトレイルを歩けば、雄大な自然を堪能することができる。だが、資金不足や気候変動などの影響で、その存続が危うくなっている。
私が夏に訪れる場所は飛び切り素晴らしく、どんな億万長者だって、買うことはできない。
そこはオレゴン州北部にそびえるフッド山の斜面で、近くをパシフィック・クレスト・トレイルという国立の自然歩道が通っている。植生は低木帯から高山植物の草原へと移り変わり、夜になれば、氷河の解けた水が奏でる小川のせせらぎを聞きながら眠りに就く。
私は14歳の頃から、夏になるとそこで過ごしてきた。今では、夏だけでなく、冬の間も心のよりどころとなっている。寝つけない夜には、その景色を思い浮かべると、心が静まるのだ。
幸いなことに、そこは私たちの土地だ。正確に言えば、すべての米国民の土地、つまり公有地で、原生の自然が残るパラダイス公園と呼ばれている。私に孫が生まれたら、その小川で遊ばせたいと思っている。
公園の近くには、米国が大恐慌に苦しんでいた1930年代にトレイルが造られた。失業対策として発足した「市民保全部隊」によって建設され、後にパシフィック・クレスト・トレイルの一部となった。今よりはるかに貧しかった当時でさえ、米国は大自然を楽しむために資金や人材を割り当てることができた。だが、世界で最も豊かな国になった現在、トレイルの維持管理さえ十分にできていない状態なのだ。
トレイルが窮状に陥った背景には、気候変動や森林火災、資金不足など、いくつかの理由がある。私たちは先人が残してくれた遺産を守れていないばかりか、損なっているように思える。「多くのトレイルが消滅しました」と話すのは、長距離トレイルについて詳しいバーニー・スカウト・マンだ。彼は、起点から終点までを一気に踏破する「スルーハイク」と呼ばれるスタイルで、パシフィック・クレスト・トレイルを歩いた経験をもち、全米の国立景観トレイルを支援する団体の理事長を務めている。1960年代からハイキングを続けてきた彼は、手入れされずに野生の状態に戻った短いトレイルをいくつも知っているのだ。「トレイルには人の関与が必要です。使わなければ、消えてしまいます」と語る。
私がバックパックを初めて背負ったのは、父が母と私をイノシシ狩りに連れていってくれた6歳の頃だ。その後、狩りに何度も行き、イノシシは1頭も仕留められなかったが、私は手つかずの自然に夢中になっていった。
憧れのハイカーを追いかけて
1970年にエリック・ライバックという10代の少年が、パシフィック・クレスト・トレイルの全区間を踏破した。その挑戦に関するナショナル ジオグラフィック誌の記事と、ベストセラーになった彼の著書を、私は貪り読んだ。私が生まれ育ったオレゴン州の農園は、トレイルから2時間ほどしか離れていない。自分もライバックになりたい。そう思った私は、翌年、ベリー摘みのアルバイトで稼いだ小遣いでバックパックを購入し、パシフィック・クレスト・トレイルを歩き始めた。それ以来、私はハイキングを続けている。
ライバックの登場は、米国の長距離トレイルに対する関心の第1波を起こした。その後、ビル・ブライソンとシェリル・ストレイドといったハイカーたちが、東部のアパラチアン・トレイルやパシフィック・クレスト・トレイルを歩き、その体験を本で出版すると、第2、第3の波が起きた。今では米国の長距離トレイルを目指して、世界中から愛好家がやって来る。
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