タンザニア、キルワのインド洋を望むフスニ・クブワ宮殿跡。14世紀のスルタンが暮らした頃は100以上の部屋があった。(ALAMY/ACI)

 タンザニア沿岸から約2キロ離れたキルワ・キシワニの島には、見事な遺跡群が密集している。サンゴ石を使った宮殿や大モスクの跡は、この小島が東アフリカにおける金交易の拠点だった時代の名残だ。

 中世に栄えたキルワは、スワヒリ海岸と呼ばれる沿岸に並ぶ交易都市群の中心だった。「スワヒリ」は「沿岸に住む者」を意味するアラビア語に由来し、今ではこの一帯で使われる言語の名称にもなっている。

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 スワヒリ語は、以前から一帯で話されていたバンツー語に、ペルシャ語やアラビア語の単語を取り入れた言語だ。アラブやペルシャの慣習は、スワヒリの建築や芸術、そして宗教にも反映されている。いずれにおいても、混じり合ったこれらの文化の面影が強く見て取れる。(参考記事:「西アフリカ古代人のゲノムを解読、民族拡大の定説に一石」

 スワヒリ海岸とイスラム文化圏のつながりは、19世紀ヨーロッパの植民地主義者がキルワに抱いた偏見を補強した。1859年にキルワを訪れた英国の探検家リチャード・バートンをはじめ、ヨーロッパの学者たちは、アフリカ人は非アフリカ人に対し「劣っている」との考えから、石でできたこの都市をアフリカ土着の文化が作れたはずはないと信じ込んだ。つまり、キルワは全て外部から来た人々によって作られたに違いないと主張したのだ。

14世紀のスルタン、スライマン・イブン・アル=ハサンによって鋳造された硬貨。大英博物館所蔵。(SCALA, FLORENCE)

 近年の考古学的発見によって、実態はもっと複雑だったことがわかっている。キルワをはじめとするスワヒリ海岸の交易都市は、東アフリカの土着の文化を強固な基盤として、様々な影響が絡み合って発展したものだったのだ。

年代記から浮かび上がる豊かな歴史

 キルワでは1958〜1965年に初めて本格的な発掘調査が行われた。調査を率いた英国の考古学者ネビル・チティックは、植民地主義目線の「外来者理論」を覆す歴史を明らかにした。

 チティックは、キルワの人口の大半がアフリカ人だったと結論づけた。エリート層の一部はインド洋の向こう側にあるイスラム圏にルーツを持つことが多かったものの、島が海の彼方から統治されていたわけではないことを示唆する証拠が見つかった。キルワ島を治めていたのは、何世代も前からアフリカに根を下ろしていたペルシャ系やアラブ系の人々だった。

 キルワ史の様々な側面を知るためにチティックが重視したのは、王の系譜を記した「キルワ年代記」だ。この書物のほか、硬貨や陶器などの遺物を検証することで、チティックや後世の学者たちは、豊かで複雑なキルワの歴史を描き出してきた。

次ページ:スワヒリ文化の勃興

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