古代エジプト時代の墓に描かれるのは、高貴な生まれの人ばかりではなかった。デイル・エル・メディナにある、ラムセス2世の時代(紀元前1279年~1213年頃)の彫刻家の墓には、棺に装飾を施す画家が描かれている。(UIG/ALBUM)

 西洋の画家たちは、自らの名前が永久に残るよう「個性」を作品に刻みつけてきた。古代エジプトの画家たちはその真逆だ。彼らは世界的に知られる芸術作品を、紀元前3000年ごろに確立された様式を継承しながら、匿名のまま作り続けた。

 古代エジプト文化の発祥から、王家の谷にある巨大な王墓の装飾に至るまで、エジプトの絵画は大衆を喜ばせるためではなく、より超越的な目的をもって描かれていた。

 死者の活力である「カー」を、来世でも継続させるためには栄養が必要だった。その栄養を供給するために、エジプト人は絵画の魔力(ヘカ)に頼ろうと考えた。ある物体を描けば、それを現実のものにできると彼らは信じていた。小麦の栽培、狩り、釣りなどが好んで描かれたのはそのためだ。(参考記事:「語呂合わせで生まれたエジプトの神々」

王家の谷にある第19王朝のファラオ、セティ1世の墓を飾る絵画。この時代の作品の完成度の高さが見て取れる。柱に描かれているのは、ファラオのそばに立つ古代の闘いの女神ネイト。(ARALDO DE LUCA)

 エジプト象形文字の研究により、そうした無名の芸術家たちは「セシュ・ケドゥト(輪郭を書く人)」と呼ばれていたことがわかっている。これは父から息子へと受け継がれる世襲制の仕事だった。

 彼らの技術は、彫像や棺から、家具、石碑まで、さまざまなものの装飾に用いられた。しかし、そうした職人たちがもっとも重要視していた仕事は、神殿や墓の装飾だった。同じテーマ(ナイル川沿いの生活、死後の世界の風景、正義を執行するファラオなど)を、彼らは何世紀にもわたって繰り返し、独特の平面的かつ二次元的なスタイルで描き続けた。色使いは常に変わらず、人や物は、コマを長く連ねた現代のマンガにも似た形式にまとめられていた。

第19王朝時代(紀元前1292〜1190年)の、センネジェムという名の職人の墓に描かれた壁画。来世の畑で、夫婦が力を合わせて穀物を収穫している。(ARALDO DE LUCA)

 動物や植物は色鮮やかに、ありのままの姿に描かれることが多い一方で、人間は平面的スタイルで描かれた。体と頭部はほぼ例外なく横向きになっている一方で、目と肩は正面を向いていた。

 この独特の様式は非常に古くから存在した。最初に体系化されたのは古王国時代(紀元前2575〜2150年)のことで、それ以降、中王国時代(紀元前1975〜1640年)、新王国時代(紀元前1539〜1075年)を通じて、ほぼ途切れることなく存続した。画家たちは、ローマがエジプトを併合する紀元前30年まで、このスタイルを使い続けた。

ネフェルタリの顔には陰影が付けられ、奥行きが表現されている。エジプト絵画にはあまり見られない手法だ。(ARALDO DE LUCA)

次ページ:独特の様式の起源

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