旧約聖書には、エジプトを出て約束の地を目指したイスラエルの民は、エドム王国を通過する必要があったと記されている。現在のイスラエル南部とヨルダンにまたがる地だ。そこで、イスラエル人はエドム人に「あなたの国境を越えるまで『王の道』を通ります」(民数記21章22節)と言って、領内を通過させてくれるように懇願する。
この「王の道」は青銅器時代からあり、エジプトと紅海のアカバ湾、そして今のシリアのダマスカスを結ぶ一帯の主要な交易路だった。大きな帝国の首都は築かれなかったものの、エジプトから穀物、イエメンから香、紅海から真珠、インドから香辛料がもたらされ、道沿いの都市は商業で富を成した。
最も繁栄した都市の一つが、ギリシャ文化が広まった時期に築かれたジェラシュだ。ジェラシュも貿易で豊かになり、度重なる征服者によって都市が形成され、やがて東方へと拡大したローマ帝国に吸収された。ローマ帝国でジェラシュは東の国境沿いにあるギリシャの都市をまとめた「デカポリス」の一つとされた。その頃の繁栄ぶりを物語る遺跡が驚くほどよい状態で現在も維持されている。
金の川沿いのギリシャの都市
碑文によれば、この都市の名前は最初の居住者にちなんで与えられた。紀元前4世紀前半、アレクサンドロス大王の東方遠征でペルシャ軍と戦った老兵たちだ。ヨルダン渓谷と砂漠の間にある肥沃なこの土地は、その報酬だった。高齢者はギリシャ語でゲラスメノスと言い、彼らの土地はゲラサと呼ばれ、のちにジェラシュになった。
ジェラシュがアレクサンドロス大王の駐屯地だった可能性は十分ある。だが、誕生の物語はおそらく事実と異なる。ジェラシュは現地の言葉であるセム語であり、ギリシャ語の最初の名前は「金の川沿いのアンティオキア」を意味する「アンティオキア・アド・クリソロアム」だった。最初の植民地を築いたのは、紀元前2世紀の古代ギリシャ、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスだろう。