マンデラは、アパルトヘイトを終わらせるには武力を用いるほかないと考えるようになっていた。1962年には、軍事訓練を受けるため、そして運動への支持を集めるため、短期間、国外へ出た。しかし、国に戻って間もなく、許可なしに国を出たとして逮捕され、有罪判決を受ける。マンデラが刑務所にいる間、警察はマンデラの書類からゲリラ戦の計画を知ることとなり、マンデラと同志たちは破壊活動の罪で起訴された。
マンデラらは、今日リヴォニア裁判として知られる裁判において、有罪および死刑判決を受けることになるとわかっていた。そこで、陳述を行う中でアパルトヘイトへの抵抗について広く知ってもらい、黒人を抑圧する法システムに挑戦状をたたきつけることとした。答弁の順番がまわってきたとき、マンデラは4時間のスピーチを行った。
「人間としての尊厳を奪われるというアフリカ人の経験は、白人至上主義的な政策の直接の結果です」。彼はそう語った。「私たちの闘いは真に国家としての闘いです。私たち自身の苦しみと経験から想像される、アフリカの人々の闘いです。それは生きる権利を求めての闘いです」。マンデラは自由な社会という理想に身をささげており、「必要とあらば、その理想のために命を差し出すつもりです」と述べた。
刑務所での日々
マンデラは死刑とはならなかった。しかし、1964年、終身刑の判決を受けた。面会を許されたのは年に1回、30分間、1人のみ。手紙は年に2通送り、2通受け取ることができた。厳しい環境に閉じこめられ、採石場で働いた彼は、やがて他の囚人や看守の尊敬を集めるようになった。ANCに暴力的行為をやめさせることを条件に釈放するとの申し出もあったが、マンデラは断った。
27年の服役生活の中で、マンデラは世界でも最も名を知られる政治犯となった。支持者たちはマンデラの釈放を求め、世界中の反アパルトヘイト活動家たちはマンデラに刺激を受けた。
1960年代、国連の中で南アフリカに対する制裁を唱える国が現れると、以後そうした声は大きくなっていった。やがて、南アフリカは国際社会の中で孤立していった。1990年、国際的な圧力と内戦の危機を受けて、南アフリカのデクラーク大統領はアパルトヘイトの廃止を宣言し、マンデラを釈放した。
アパルトヘイトはマンデラの解放とともに直ちに終焉を迎えたわけではない。71歳となっていたマンデラはデクラークと会い、多数決での決定を可能とする新しい憲法について話し合った。アパルトヘイトは1991年に廃止され、1994年には、政党となったANCが平和で民主的な選挙において62%以上の票を獲得した。デクラークとともにノーベル平和賞を授与されたマンデラは、新生南アフリカの大統領となった。
アパルトヘイト後の指導者として
マンデラは5年間、大統領の任に当たった。功績の1つは南アフリカ真実和解委員会の設置だ。人権侵害について記録し、加害者と被害者双方がともに過去と和解するための仕組みである。その成果については議論があるものの、長年にわたる傷からまだ癒えていないこの国で、報復ではなく修復を旨とする「修復的司法」を開始したことは事実だ。
マンデラのなしたことが完璧だったわけではない。大統領としては能力がなかったとする専門家もおり、暴力行為や経済問題の扱い方がまずかったとの批判もある。
マンデラは1999年に任期を終えると、残りの人生を貧困問題とエイズの啓発に費やした。2013年、95歳で亡くなった。
マンデラの誕生日である7月18日は、毎年、彼の功績と犠牲を称えるネルソン・マンデラ国際デーとなっている。これは、彼の理想がまだ成し遂げられていないという、マンデラ自身も述べていたことを思い出すための日でもある。
「自由であるということは、単に自らが鎖から解放されることを指すのではなく、他者の自由をも尊重し促進するような生き方をすることだ」と、彼は自伝に書いている。「自由への献身を試される私たちの日々は、まだ始まったばかりなのだ」