ネルソン・マンデラの生涯、終わりなき人種差別との闘い

世界一有名な政治犯から南アフリカ初の黒人大統領となるまで

2020.07.23
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元南アフリカ大統領で公民権活動家のネルソン・マンデラは、平等を求める闘いに生涯をささげ、南アフリカの人種隔離政策、アパルトヘイトの終焉に貢献した。彼の功績は現在、7月18日のネルソン・マンデラ国際デーに称えられている。(PHOTOGRAPH BY POOL-THEANA CALITZ-BILT, AP)
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 ネルソン・マンデラは1918年7月18日、大英帝国自治領であった南アフリカ連邦に生まれた。住民の多くが黒人であるにもかかわらず、そこには少数の白人が土地と富、そして政治の実権を握る、差別的な社会構造があった。のちに「アパルトヘイト」として合法化される社会構造だ。

 マンデラは95年の生涯にわたり、この構造を覆すことに力を尽くした。抵抗と投獄、そして指導者としての人生を通して、マンデラは南アフリカをアパルトヘイトから解放することに大きく貢献し、和解と多数決の時代へと導いたのだった。

若き日のマンデラ

 マンデラが生まれた時に与えられた名は、ホリシャシャ・ダリブンガ・マンデラ。父親は南アフリカで二番目に人口の多いコーサ民族の一部、テンブ族の長だったが、英国の行政官に抵抗したことで首長としての地位や土地を奪われた。ホリシャシャもまた、黒人専用の小学校に入学した日にアイデンティティを奪われた。新たに英語の名を与えられたのだ。白人が「アフリカ名を発音できない、またはしようと思わない、そしてアフリカ名を持つことを未開とみなすような」社会においてよくある慣例だったと、マンデラは自伝『自由への長い道』の中で述べている。

 マンデラは、黒人として当時の南アフリカで最下層におかれていたものの、首長の息子だったおかげでフォートヘア大学に進学がかなった。彼はここで活動家となり、学生自治会の権限の不足を訴えたことで退学となった。故郷である東ケープ州の小さな村へ戻ったものの、退学の罰として見合い結婚をするよう一族に迫られたことから、マンデラは1941年、ヨハネスブルクにある南アフリカ最大の黒人居住区、ソウェト地区へと逃れた。

アパルトヘイトと抵抗運動

 マンデラはウィットウォーターズランド大学法学部で学び、国内初の黒人による法律事務所を開いた。さらに、南アフリカの黒人の公民権を求めるアフリカ民族会議(ANC)に参加した。一方で、1948年にはすでに横行していた人種隔離が法制化され、アパルトヘイトが正式な政策となった。黒人は常時、身分証明書を携帯すること、白人地域に立ち入る際にはそれを提示することを求められた。また、黒人専用地区への居住を強制され、人種間での結婚を禁止された。やがては選挙権すらもはく奪された。

 当初、マンデラやANCのメンバーたちはストライキやデモなどの非暴力的な活動を行っていた。1952年、マンデラは抵抗運動のリーダーとなったが、この運動では積極的に法に違反することが呼びかけられた。マンデラを含め8000人以上が、夜間外出禁止令への違反や身分証明書の不携帯などで逮捕された。

1956年、南アフリカ・ヨハネスブルクの裁判所前に集まる人々。この時、マンデラを含む反アパルトヘイト活動家たちは反逆罪に問われていた。無罪となったものの、マンデラを含む何人かは1964年に別件で有罪となった。(PHOTOGRAPH BY AFP VIA GETTY)
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 黒人の権利を訴える抵抗運動は、ANCの目的やマンデラ自身の存在を世に知らしめた。服役後もマンデラは運動を率い、1956年、155人とともに反逆罪で起訴された。1961年に無罪判決を受けた後、17カ月は身を隠して暮らした。

次ページ:刑務所での日々

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