子どもたちを救い パンデミックをせき止めた偉大な科学者

1957年に米国に上陸したインフルエンザに、数カ月でワクチンの大量生産へと導いたヒルマン

2020.06.29
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【参考動画】インフルエンザウイルス101(解説は英語です)
インフルエンザウイルスは、毎年悪夢のように流行を繰り返し、多くの人命を奪う。ウイルスはどのように宿主を攻撃するのか、根絶はなぜ困難なのか、科学者はいかにしてウイルスに立ち向かっているのかを解説する。

 1966年、ジェリル・リンの妹のカーステンは、父親が作った試験段階のワクチンを最初に接種された1人となった。「赤ちゃんが姉のウイルスによって保護されるとは、医学史上類を見ない出来事でしょうね」と、ヒルマンは後にワクチン・メーカーズ・プロジェクトの取材で話している。通常、妹や弟が年上のきょうだいからもらうのは病気であって、免疫ではない。

 それから1年後、ジェリル・リンがのどの痛みを訴えてから4年近くが経って、ヒルマンのおたふくかぜワクチンは正式に承認された。ヒルマンの娘から採取されたウイルス株は、今もおたふくかぜワクチンのベースとして世界中で使われている。

光が当たらなかった理由

 ヒルマンの成功は、47年間勤務した製薬会社メルク・アンド・カンパニーのおかげでもあった。メルクで、ヒルマンは自分の研究を自分で管理する自由が与えられた。メルクの潤沢な資金を頼りに、ヒルマンと彼の研究チームは人間と動物用に40種以上のワクチンを開発した。

 彼の2番目の妻ロレイン・ウィットマーは、ヒルマンの伝記作家に次のように語っている。「メルクでは、研究のための資金は十分にありました。だから、お金のことは気にせず、研究に没頭できたのです」。ヒルマンは、冗談めかして民間セクターを「汚い業界」と呼んでいたが、その民間だからこそ、彼特有の厚かましさを発揮し、自らの研究を市場まで導くことができたと言える。

 製薬業界には難点もある。製薬会社に所属していたがために、ヒルマン自身の功績が広く一般に認められにくいということもあった。B型肝炎ワクチンの有効性を証明した論文に、開発者であるヒルマンの名が載らなかったことについて聞かれると、ヒルマンは「名前が論文に載ったり、テレビカメラやラジオマイクの前に私が立ったりすれば、人は私が何かを売ろうとしていると思うでしょう」と答えた。ヒルマンは最後まで、自分の開発したワクチンに自分の名をつけることはしていない。

 ヒルマンとそのチームは、現在子どもへの接種が推奨されている14種のワクチンのうち、麻疹(はしか)、おたふくかぜ、A型肝炎、B型肝炎、水痘、髄膜炎、肺炎、そしてヘモフィルス・インフルエンザB型菌(Hibワクチン)の8種を開発した。WHOの推定では、麻疹のワクチンだけでも、2000年から2015年の間に世界で2030万人の命を救っただろうと考えられている。

 1998年、研究者のA・J・ウェイクフィールドがヒルマンの開発した麻疹・おたふくかぜ・風疹の三種混合ワクチンが自閉症の原因になるとする論文を発表すると、ワクチン反対運動に火が付いた。論文は複数の独立した研究によって否定され、2010年に論文を掲載したジャーナルはこれを公式に撤回した。ヒルマンは、論文が撤回される5年前に、がんのため他界した。85歳だった。

 その死に際して、ヒルマンは20世紀で最も多くの命を救った科学者として称えられた。米国立アレルギー感染症研究所所長のアンソニー・ファウチ氏は、2005年にニューヨーク・タイムズ紙に、次のように語っている。「彼が成し遂げた科学の質と量は驚くべきものと言えます。普通なら、彼が残した功績の一つだけでも、輝かしい科学的キャリアを築くだけの価値が十分ありますからね」

文=SYDNEY COMBS/訳=ルーバー荒井ハンナ

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