子どもたちを救い パンデミックをせき止めた偉大な科学者

1957年に米国に上陸したインフルエンザに、数カ月でワクチンの大量生産へと導いたヒルマン

2020.06.29
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
1957年、箱に詰められ、ヘリコプターで全米に送られたヒルマンのインフルエンザワクチン。(PHOTOGRAPH BY WALTER SANDERS, THE LIFE PICTURE COLLECTION/GETTY)
[画像のクリックで拡大表示]

 1カ月後、香港滞在後に発症したという海軍兵から、うがいした塩水を受け取った。そこに含まれたウイルスを培養して、数百人の兵士と民間人がもつ抗体を調べてみた。すると、誰ひとりとしてこのインフルエンザの型の抗体を持つ者はいなかった。 (参考記事:「手洗いの大切さ、発見したが報われなかった不遇の天才医師」

 他の研究機関にも新型ウイルスのサンプルを送ってみると、1889~1890年のインフルエンザパンデミックを経験したごく少数の高齢者だけに抗体があることがわかった。このことは、ほぼすべての人が新型のインフルエンザに感染するリスクがあることを示していた。

「1957年当時、誰も気づいていなかったんです。軍も、WHO(世界保健機関)も、気づけませんでした」。後にヒルマンはインタビューでこう語っている。

 米国に与えられた準備期間はわずかであると気付いたヒルマンは、製薬会社に直接連絡を取り、自分のサンプルからワクチンを製造できないか依頼した。また、ワクチン製造に使われるニワトリの有精卵を十分に確保するため、できるだけ多くの雄鶏を生かしておくように要請した。ヒルマンの研究は、ワクチンを規制する政府機関である生物学的製剤基準局の審査をまだ受けていなかったが、製薬会社は製造を引き受けた。ちなみに当時と比べて規制が厳しくなっている現在では、とても実現できないことだ。

 ヒルマンの努力の甲斐あって、1957年秋にインフルエンザが米国に上陸した頃には、4000万本のワクチンが準備されていた。このウイルスによる世界の死者は110万人、米国では11万6000人と推定されている。当時の米公衆衛生局長官レナード・バーニーは、ワクチンがなければあと数百万人の米国人が感染しただろうと語った。米陸軍は、ヒルマンの功績に対して殊勲賞を授与している。

「ワクチンでパンデミックを回避できたのは、あの時だけです」と、ヒルマンは振り返っている。 (参考記事:「新型コロナの遺伝子ワクチン候補、最初の臨床試験をクリア」

家族を襲った感染症

 1963年3月、当時5歳だったヒルマンの娘ジェリル・リンが、真夜中にヒルマンの寝室へやってきて、喉の痛みを訴えた。見ると、あごが腫れていた。流行性耳下腺炎、いわゆる「おたふくかぜ」だった。

 おたふくかぜの死亡率は高くない。しかし、後遺症として耳が聞こえなくなったり、脳や膵臓への障害、さらには精巣に炎症を起して男性不妊症の原因になることも知られている。米疾病対策センター(CDC)によると、1964年に米国では推定21万人が感染している。

 ヒルマンは娘をベッドに寝かせると、検体採取用の綿棒を取りに研究所へ車を走らせた。娘の検体を使って、彼はウイルスの培養を始め、ニワトリの胚(受精後の初期段階)に接種することで人に対して弱毒化させた。

 ウイルスを何度もニワトリの細胞に感染させると、次第にニワトリには感染しやすく、人間には感染しにくくなる。こうして、人間に接種すると抗体ができるだけの余力はあるものの、病気を発症させるほどの毒性を持たないウイルス(すなわちワクチン)が作られる。

1948年、ニューヨーク州ローチェスターでおたふくかぜに感染した5人のきょうだい。ヒルマンがウイルスを開発する前の1964年には、米国で推定21万人がおたふく風邪に感染したとされているが、2019年の感染者は3474人だけだった。(PHOTOGRAPH BY BETTMANN, GETTY)
[画像のクリックで拡大表示]

次ページ:脚光を浴びなかった理由は?

おすすめ関連書籍

ビジュアル パンデミック・マップ

伝染病の起源・拡大・根絶の歴史

ささいなきっかけで、ある日、爆発的に広がる。伝染病はどのように世界に広がり、いかに人類を蹂躙したのか。地図と図版とともにやさしく解き明かす。

定価:本体2,600円+税

  • このエントリーをはてなブックマークに追加