20年近くミラノ公国に仕えたレオナルド・ダ・ヴィンチは、16世紀初頭、青年期を過ごしたフィレンツェに戻った。(参考記事:「ダ・ヴィンチとフィレンツェ 没後500年、天才とその芸術を再現する役者たち」)
まもなく50歳を迎えようとするこのころ、ダ・ヴィンチはすでに革新的なカタパルト(投石機、1485年頃設計)や壁画「最後の晩餐」(1495~98年)などを手がけており、科学の世界でも、芸術の世界でも絶大な名声を博していた。
現実をありのままにとらえようとし、観察を重視するダ・ヴィンチは、「サペレ・アウデ」(勇気を持って知識を得よ、という意味のラテン語)の原則を様々な分野の探求に適用した。(参考記事:「「ダ・ヴィンチは正しかった」現代医学をも驚かす」)
1502年、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子で野心家のチェーザレ・ボルジアが、ダ・ヴィンチの後援者になった。ダ・ヴィンチに与えられた最初の任務のひとつは、ボローニャ近郊の都市イーモラの地図を作成することだった。
ボルジアは1499年にこの町を攻め落としていた。濠をめぐらし、堅固に要塞化されたイーモラは、このカリスマ的な若き指導者にとって最も重要な占領地だった。そこでボルジアは、町の地理を把握し、支配を確実にするため、ダ・ヴィンチの明晰な頭脳から生まれる地図を求めた。
参考ギャラリー:天才ダ・ヴィンチの世界に触れる、英王室コレクション 写真11点(画像クリックでギャラリーへ)
レオナルド・ダ・ヴィンチの没後500年にあたる2019年、英国王室が所蔵するダ・ヴィンチの素描のコレクションが一般公開された。 (ROYAL COLLECTION TRUST/© HER MAJESTY QUEEN ELIZABETH II 2019)