
1985年1月31日、南アフリカ共和国のP・W・ボータ大統領は国会で、獄中のネルソン・マンデラが「政治的武器としての暴力を無条件に放棄する」ならば彼を釈放する用意がある、と発表した。ボータがこのような提案をするのはこれが初めてではなく、以前は、さらに「マンデラがトランスカイに自主退去すること」という条件もつけていた。トランスカイとは、ボータ政権が黒人の居住指定地域として設けた自治区「バントゥースタン(別名ホームランド)」の1つである。
これを受けてマンデラは2月10日に声明を発表。ソウェトにあるジャブラニ・スタジアムで開催された大衆集会で、娘ジンジが代読した。この声明のなかで、マンデラは「政府が私に押しつけたがっている条件には驚かされました。私は暴力など振るいません」と述べ、ボータの名を出して次のように語った。
彼に暴力を放棄させましょう。アパルトヘイトを廃止すると言わせましょう。人民の団体であるアフリカ民族会議に対する禁止令を解かせ、アパルトヘイトを批判して投獄または追放された人々全員を解放させましょう。自由な政治活動を保証させ、人民が自らの手で統治者を決めることができるようにしようではありませんか。
マンデラは「交渉が許されているのは自由な人間だけです。囚人は契約を結ぶことができないのです」と続けた。そして、誰も誤解しようのない言葉で自身の立場を示した。「私にも皆さんにも自由が与えられていない今、私は政府に対してどのような約束もできないし、することはありません」
この声明を発表したとき、1964年にサボタージュの罪で終身刑を言い渡されたマンデラの服役生活はすでに22年間にも及んでいた。そのうち最初の18年間は、ロベン島の悪名高い刑務所の石灰岩採掘場で重労働に従事させられていたのだった。もしマンデラが南アフリカでのアパルトヘイト廃止に一役買ったと自負し、ボータから提示された条件をのんだとしても、このような状況に置かれてきたことを考えれば無理もないといわざるを得ない。なにしろ彼は、市民的不服従と非暴力の抗議というガンジーの哲学を長年守り通してきたのだ。
この提案を拒み、ボータとのいかなる取引にも応じなかったことで、マンデラは道徳的に優位な立場を維持するとともに、世界の関心を再び南アフリカの状況へ向けさせた。反アパルトヘイト運動に1950年代から取り組んできた彼は、アパルトヘイト終焉(しゅうえん)のため命を賭して活動することを、とうの昔から心に決めていたのだ。とはいえ、闘い続けるという決断を下すには、並々ならぬ胆力と不屈の精神が必要だったに違いない。かつてどれほど強い信念を抱いていたにせよ、22年間もの刑務所暮らしの末に、即時釈放という選択肢を提示されたのだ。しかも、当時この闘争は勝てる見込みがないと見られていたのだから、なおさらである。