緑の草地へ、悠久の道を行く

世界各地の暮らしに根づく「移牧」。ユネスコ無形文化遺産にも登録

2020.05.04
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300頭のウシの群れがカストロピニャーノの町に入り、ようやく移動が終わる。(PHOTOGRAPH BY GIUSEPPE NUCCI)
この記事は、雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版 2020年5月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。

イタリア南東部のプーリア州や世界各地の牧畜を行う地域では、季節の変わり目に家畜を移動させる「移牧」の伝統が今も息づいている。

 毎年6月になると、ヌンツィオ・マルチェッリは1300頭のヒツジを連れ、農場を後にする。

 彼の農場は、イタリア中部アペニン山脈の中世のたたずまいを残すアンベルサ・デリ・アブルッツィ村の近郊にある。65歳のマルチェッリは雇っている羊飼いたちと、この地方の伝統的な暮らしに興味をもつ観光客とともに、3日かけて50キロほど山道を歩き、ヒツジの群れを農場のはるか上に広がる高地の草原に連れて行く。

 農場を出発してヒツジたちが夏を過ごす牧草地へ向かう道は、2300年以上前から続く季節ごとの移動によってできたもので、イタリア語で「トラットゥーロ」と呼ばれている。ヒツジたちはひづめの音を響かせてアンベルサの村の石畳の通りを抜け、羊飼いたちと険しい斜面を登る。一行はつづら折りの山道を進み、野の花が咲く広大な野原や森を抜け、石壁が崩れた村々を通り抜ける。そして3日目の午後、まだ雪を頂いたモンテ・グレコを望む標高2000メートルほどの高原にたどり着いた。

コラントゥオノ家が移動を始めて3日目、豪雨に見舞われた牛飼いたちがモリーゼ州リパリモザーニで野営し、ぬれた体を乾かす。一行はこの地方に現在も五つ残る家畜の移動路の一つをたどる。(PHOTOGRAPH BY GIUSEPPE NUCCI)

 ローマから約150キロしか離れていないのに、この高原には“忘れ去られた世界”のような雰囲気が漂っている。野生のオレガノやタイムの間をマルハナバチが飛び回り、アペニン山脈の上の真っ青な空にはイヌワシやハヤブサが舞う。さまざまなハーブや草が茂り、野の花が咲き乱れる。ここは、ずっといたくなる場所だ。

 だがマルチェッリには、農場での仕事がある。彼は観光客に部屋を開放し、農家の暮らしを体験できる「アグリトゥーリスモ」を提供しているのだ。そのため彼と観光客は、ラム肉のシチューや、パンと野菜入りのスープ「パンコット」など、アブルッツォ地方の伝統料理でお祝いの昼食をとると、バンに乗って村へ戻る。

 この高原はアブルッツォ・ラツィオ・モリーゼ国立公園との境界に近い公有地で、夏から初秋にかけて、マルチェッリが地元の自治体から借りている。マルチェッリと観光客が農場へ戻った後もヒツジたちはここに残る。羊飼いたちも残り、番犬のアブルッツォ産のマスティフ犬とともに、ヒツジたちがオオカミやクマなどの捕食動物に襲われないよう見守るのだ。

アブルッツォ州フォンテ・ヴェティカで毎年開かれるヒツジ市で、群れを見張る地元産の番犬。(PHOTOGRAPH BY GIUSEPPE NUCCI)

 11月になると、マルチェッリと羊飼いたちは、時には農場に滞在する観光客も交えて、ヒツジの群れを農場に連れ帰る。こうした移動は毎年繰り返される。

 年に2回のこの家畜の移動は「移牧」と呼ばれ、2019年12月11日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)によって、極めて重要な人間の文化だと認められ、無形文化遺産として登録された。英語で移牧を意味するtranshumanceとは、ラテン語で“~を越えて”を意味する単語“トランス”と“土”を意味する単語“フムス”を組み合わせた言葉だ。

 毎年夏と冬になると、人間と家畜が牧草地を求めて行うこの移動は、人間が定住するあらゆる大陸の牧畜文化において、何千年も前から行われてきた。

次ページ:世界各地の暮らしに根づく移牧

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