1620年に描かれた新バージョンの「ホロフェルネスの首を斬るユディト」。古いバージョンは、1612年に絵の指導を受けていたタッシから性的暴行を受けた後に描かれた。ユディトの物語は、当時男性画家の間で人気の題材だったが、ジェンティレスキの描くユディトには断固とした決意と力強さがあり、侍女との結束力を感じさせる。暴力と復讐を、17世紀初期の女性という独特の視点から見せてくれる作品だ。(BRIDGEMAN/ACI)

 17世紀のイタリアに生きたアルテミジア・ジェンティレスキは、画家として当時の女性としてはあり得ないほどの成功を手にしたが、女性であるがゆえに傷つけられることも多かった。根強い偏見と闘い、積み重ねたつらい経験を、彼女は絵画にぶつけ、数々の偉大な作品を生み出した。

 アルテミジアは、1593年にイタリアのローマで誕生した。父親のオラツィオ・ジェンティレスキもまた、画家として高い評価を受けていた。アルテミジアの母親が1605年に他界した後、オラツィオは再婚せず、アルテミジアはわずか12歳でジェンティレスキ家の母親的役割を担うことになる。

アルテミジアは、父である画家のオラツィオ・ジェンティレスキの影響で画家を志すようになった。ルーカス・フォルスターマン作のオラツィオ・ジェンティレスキ。ロンドンの国立肖像画美術館所蔵。(SCALA, FLORENCE)

 当時多くの若い女性がそうだったように、アルテミジアも家にこもりきりの生活を送り、教会へ行く以外ほとんど外へ出ることはなかった。女子修道院へ入ることを拒み、自宅にあった父親のアトリエで長い時間を過ごした。当時、画家志望の男性のアトリエに女性が助手として入るというのはよくあることだった。アルテミジアも父親のアトリエで学びながら、元々備わっていた画家としての才能に磨きをかけていった。

 アルテミジアが子どもの頃、イタリアの美術界は画家カラヴァッジョ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ)の登場に騒然としていた。バロック期の大胆で華麗、劇的な作風が、多くの画家を魅了した。オラツィオも、熱心なファンのひとりだった。カラヴァッジョの影響は、オラツィオや娘のアルテミジアの作品にもよく表れている。アルテミジアが弱冠17歳にして描き上げた「スザンナと長老たち」(1610年)には、カラヴァッジョ特有のスタイルをはっきりと見ることができる。

暴行と復讐

 1612年ごろ、アルテミジアは旧約聖書の一場面である「ホロフェルネスの首を斬るユディト」の制作に取り掛かった。旧約聖書の「ユディト記」によると、イスラエルを攻撃しようとしていたアッシリアの将軍ホロフェルネスは、寡婦だったユディトを求め、彼女を自分の天幕に招き入れたが、酒に酔って眠り込んでしまった。

 ユディトは貞操を守り、自分の民族であるイスラエルの人々を救うため、ホロフェルネスの首を切り落とした。この場面は、カラヴァッジョをはじめルネサンス期の画家たちが好んで描いたが、アルテミジアにはこの暴力的な題材を選んだ個人的動機があったと広く考えられている。

 オラツィオは、仕事で知り合った若き画家アゴスティーノ・タッシに、娘に遠近画法の指導をしてほしいと頼んだ。タッシはこれを受け入れた。1611年、オラツィオが留守の時に、タッシはレッスンの間アルテミジアとふたりきりにしてほしいとアルテミジアの付添人に頼み、付添人がいなくなるとアルテミジアに性的暴行を加えた。これを知ったオラツィオはタッシを訴えたので、タッシは1612年に裁判にかけられた。

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