フランス人画家ジャン・ポール・ローランスが描いた死体裁判の一場面。フォルモススは教皇服を着せられ、被告人席に座らされている。(PHOTOGRAPH BY BRIDGEMAN/ACI)

 そのローマの漁師は、よほどたまげたに違いない。伝説によると、哀れな漁師がテベレ川で引き揚げたのは、元ローマ教皇フォルモススの死体だった。死後9カ月経った亡骸を掘り起こして裁判にかけるという、カトリック教会史上類を見ない異常事態の主役となってしまった教皇だ。その死体を川で見つけるなど、いったい誰が想像しただろうか。

 フォルモススが死後に受けた屈辱の物語は、9世紀後半にイタリアで繰り広げられた権力闘争を象徴する歴史の一幕である。

 当時の教皇のリストを見れば、ローマとバチカンはキリスト教の説く協調とは程遠く、いかに混乱の時代にあったかがわかるだろう。西暦872年から965年の93年間に、ローマ教皇は24回も交代した(896年から904年の間は、ほぼ1年に1人のペース)。政治的陰謀と政情不安に揺れていた教皇職には、教皇位の剥奪、投獄、そして殺害がつきものだった。

皇帝をめぐる「王」と「公」たちの権力闘争

 9世紀後半、イタリア半島の各地で繰り広げられていた激しい権力闘争において、ローマ教皇は中心的な役割を担っていた。カトリック教会とイタリア王国の守護者であるローマ帝国の皇帝が、ローマ教皇から帝冠を授けられる形で認められていたためだ。

 西暦800年にカロリング家のカール大帝(シャルルマーニュ)が戴冠して以降、カロリング朝の王がローマ皇帝になっていたが、9世紀の後半になると広大なカロリング朝の領土は西・中・東の3つの王国に分割される。それとともに、スポレート公国など地方の国々が力をつけ始め、対立が激化していた。そこで、ローマ教皇はローマ帝国の有力な家同士の問題に堂々と干渉し、地方の権力争いに首を突っ込んだ。(参考記事:「コンクラーベの煙、色を変える方法とは」

教皇の要塞
西暦818年、教皇パスカリス1世によってローマのサンタ・マリア・イン・ドムニカ聖堂が再建された。この後、教皇職をめぐる波乱の時代が幕を開ける。
9世紀に入ると、ローマにはかつての栄光を思わせるものはほとんど残っていなかった。人のいなくなった町は廃墟と化し、「緑のヘビ、黒いカエル、翼の生えた竜」のすみかになっていたと、ある年代記は記している。住人のほとんどは町の小さな地区に肩を寄せ合い、力を失った教皇は、レオ4世(847~855年)がバチカンに建造した要塞の中に身を潜めていた。(PHOTOGRAPH BY BRIDGEMAN/ACI)

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