アヘン戦争からデモ隊まで、見てわかる香港の歴史

イラスト25点、200年の激動の歴史における重大な転換点を振り返る

2019.09.01
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政治的な自由を求めてデモ隊の抗議活動が続いている香港が、「特別行政区」という地位を与えられた背景には、特殊な歴史があった。(ILLUSTRATION BY ADOLFO ARRANZ, NATIONAL GEOGRAPHIC)

 人口700万人を超える大都市、香港で、政治と個人の自由を求める大規模デモが長期化している。だが、香港で抗議運動が起こるのはこれが初めてではない。香港の歴史は、急速な発展と政治的混迷、そして変化を求める運動の連続だった。25点のイラストを使って、香港史における重大な転換点を振り返ってみた。

1800年以前

中国が清の時代、小さな香港島は、辺境にあるのどかな漁村だった。ここへ英国の商人がインドから不法にアヘンを持ち込み、清の茶葉や絹、陶器などと交換した。後の激しい貿易戦争の火種は、こうして植え付けられた。やがて、清でアヘン中毒が深刻な問題となり、1839年には1000万人がアヘンを常用し、200万人が中毒になっていた。


1839年9月~1842年

英国によるアヘン貿易をやめさせようとした清は、密輸アヘンを没収し、英国の商人を追放した。これに腹を立てた英国が最後通牒を突き付けた。第1次アヘン戦争が勃発し、英国軍に520人、清に2万人の犠牲者が出た。清にとって、決定的な敗北だった。


1842年8月

清と英国の間で交わされた南京条約により、香港島は永久に英国へ割譲された。これを含め、清は3度にわたって英国との不平等条約を締結させられ、以後56年の間に香港島、九龍半島、新界という香港の主要な3地域が全て英国の支配下に置かれることとなる。


1856年~1860年

英国、フランス、清の間で第2次アヘン戦争が勃発。北京条約の締結で戦争は終結し、さらに九龍半島と昂船洲が英国へ割譲された。終戦時、英国とフランスの連合軍は北京の離宮を襲撃し、破壊した。清では最高3万人の死傷者が出たが、英仏軍の犠牲者は2900人にとどまった。


1898年

英国は新界を99年間無料で租借する権利を得た。清本土から大量の移民が香港へ押し寄せた。国際的な商取引が盛んになり、西洋式の学校、銀行、企業が集まり、香港は地域の一大貿易中心地へと発展する。


1937年

日中戦争が始まると、中国本土から数千人が香港へ逃れてきた。日本軍は香港の領地を爆撃したが、当時英国領だったため、全面衝突には至らなかった。

次ページ:第二次世界大戦を経て「アジアの虎」に

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