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マドリードのマヨール広場の入り口で、セネガルから来た移民たちがドラムをたたき、歌を歌い、感謝の祈りをささげる。スペインの都市部では、多くのアフリカ人が労働許可を得ないまま滞在している。毛布の上に雑貨を並べて露店を開き、警察が取り締まりに来ると店をたたんで、姿をくらます者も多い。PHOTOGRAPH BY AITOR LARA

 アフリカのマリ出身であるユースフは、スペイン南西部に位置するレペの町にある、食肉処理場だった建物で寝起きしている。同じ建物で暮らす人たちには、セネガル人やナイジェリア人もいれば、ブルキナファソやコートジボワールの出身者もいる。

 スペインに暮らして14年になるユースフはレぺの町を「岐路」と呼んでいる。人々がやって来てはとどまる場所であり、別の進路を模索する場所でもあるという意味だ。人々の移動が激しさを増す現在、数十年前には想像もできなかったほど多くの“岐路”が世界各地に出現している。

 ユースフには、幼いとき以来会っていない10代になる娘と、写真でしか顔を知らない息子がいる。ユースフがマリの首都バマコを後にしたとき、妻はその息子を身ごもっていた。妻も子どもたちも、彼が食肉処理場だった廃墟同然の建物で寝起きしていることは知らない。通りの先にある墓地の一角には、移民たちが作った廃材やビニールシートで作られた粗末な小屋がひしめいている。「こんな現実を故郷の家族に話す人はいません。すべてが秘密なんです」とユースフは言う。

 レぺが移民の“岐路”になったのは、それほど昔のことではない。町があるスペイン南西部の地中海沿岸地帯は、この数十年の間で農場の規模が拡大した。長時間の農作業や安い賃金でも働いてくれるスペイン人労働者が足りなくなると、農場主たちは外国人の働き手を雇うようになった。最初に雇われたのはモロッコ人や東欧出身の人々だった。請負業者に雇われている者もいれば、不法に入国し、自ら仕事を手に入れる者もいた。そうして何百人もの男女が町に集まってきた。

手ぶらでは帰れない

 レペの農場には仕事がある、そんな噂がスペインよりも貧しい地域へと広がっていった。「自分の人生を探すチャンスです」。ユースフはそう言うと、少し考えてから、次のように続けた。「スペインへ出稼ぎに行った人たちから聞いていました。スペインには簡単にたどり着けるし、故郷よりもましな暮らしができるって」

 農場での仕事は重労働だし、途切れ途切れにしかない。それでもユースフは月に最低でも100ユーロ(約1万2000円)は家族に送金している。娘と息子は学校での成績も良く、食事も十分にとれている。バマコにとどまっていれば、妻や子どもたちと一緒に暮らすこともできた。だが、マリで稼げる賃金と、親から受け継いだわずかな土地だけでは、とても満足な暮らしはできないのだ。

 ヨーロッパに見切りをつけ、金をためてマリへ帰ることもできるだろう。だが、ユースフはまだそうしようとは思わない。背負っているものがあまりにも大きいのだ。密入国業者へ払った金もあるし、故郷の人々からかけられている期待もある。「手ぶらでは帰れません」と彼は言った。

※ナショナル ジオグラフィック8月号「新天地の苦しい現実」では、地中海を渡りスペインに渡ったアフリカの人々の苦しい現実をレポートしています。

文=シンシア・ゴーニー/ジャーナリスト