巨万の富を稼いだ“最後の帆船”、その栄光と闇

史上最速の帆船として活躍するなか、アヘン貿易にも加担したクリッパー船

2018.09.06
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――暴君船長と呼ばれたロバート・ウォーターマンとチャレンジャー号についてお話しください。

 ロバート・ウォーターマンは、中国からの航海で何度も記録を打ち立てていました。陸上では女性に優しい紳士でしたが、船に乗ると途端に暴君と化しました。1851年、ウォーターマンはチャレンジャー号の船長に就任します。排水トン数(重量)は2000トンで、マストの高さは60メートルをゆうに超えていました。

 雇い主のグリスウォルド兄弟が、サンフランシスコまで90日以内にたどり着けたら1万ドルのボーナスを支払うと約束したのですが、与えられた船員は役に立たない者ばかりでした。船内では危うく反乱が起こりそうになり、一部の船員は殴り殺されたり帆桁から転落し、船は109日後に遭難信号旗を掲げてサンフランシスコの港へたどり着きました。ウォーターマンは、殺人罪で裁判にかけられました。クリッパー船時代において最も暴力的な事件のひとつであり、商品を市場へいち早く届けるために多くの船員や安全対策が犠牲にされたことを、米国と世界に暴露しました。(参考記事:「近代思想は船の上で生まれた?」

 この時代、船内の環境や労働条件には何の規制もありませんでした。クリッパー船を効率的に運航させるには50~60人の船員が必要でしたが、それだけの人員を集めるのは困難でした。そこで船長は、マンハッタンやボストンの酒場や売春宿に人をやり、バーテンや娼婦と共謀して客の飲み物に薬を入れていました。客は、激しい頭痛とともに目を覚ますと、そこは中国やサンフランシスコ行きの船の中、しかも持っていた給料の3分の1がなくなっていたということもありました(笑)

――時は流れ、クリッパー船はやがて「美しい過去の遺物」になったと書かれていますが、それらが米国と船主たちに残した遺産とは何だったのでしょう。

 クリッパー船は、鉄道の発達によって廃れていきました。最初はパナマ地峡に、そして後に米国に横断鉄道が敷かれ、船での長距離移動は採算が合わなくなったのです。また、長距離汽船が登場し、大西洋を横断するケーブルが敷設され、金融情報などの情報がほぼ瞬時に伝達されるようになりました。南北戦争では、南軍によってクリッパー船が何隻も沈没させられ、クリッパー時代の幕引きに拍車をかけました。

 活躍した時代はとても短かったものの、クリッパー船は今も米国人の心に刻まれています。海洋歴史家のサミュエル・エリオット・モリソン氏は、大量に現れては消えていったけれども、当時としては最も複雑な建造物であり、木製のパルテノン神殿のような存在だと語っています。クリッパー船は、今も人々に感銘を与え続けています。厳しい自由競争を生んだ資本主義のために建造されましたが、天使のような美しさという点では、他の何ものにも引けを取りませんでした。

 ウォーレン・デラノ2世は、クリッパー船によって富を築いた米国人の中でも最も有名な人物でしょう。彼はビジネスパートナーたちとともに、中国との貿易で得た富を、鉄道、炭鉱、銅鉱、大西洋横断ケーブル、不動産といった産業へ投資しました。1898年に他界した時、子どもひとりにつき100万ドル以上の遺産を残したそうです。当時、米国に長者番付が存在していれば、リストに名を連ねていたでしょう。彼の最も有名な子孫である孫息子のフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、米国の第32代大統領です。ルーズベルトはよく、祖父の言葉を引用して言いました。「ビジネスでは、左の手がしていることを決して右の手に知らせてはならない」(参考記事:「真珠湾の報復、歴史を変えたドゥーリトルの日本空爆」

 クリッパー船によって築かれた富の多くは、ミルトン・アカデミーなどの有名私立高校や、ハーバード、プリンストン、エールといった大学、その他著名な文化機関に投じられました。アヘン貿易に関わった一方で、祖国ではその富で産業の勃興に貢献し、今も一流とみなされる教育機関を支援したというのは皮肉なことです。

【参考ギャラリー】140年前のニッポン新婚旅行 写真23点(写真クリックでギャラリーページへ)
19世紀後半、ある米国の夫婦が5年間の新婚旅行で世界中をめぐった貴重な世界の写真を紹介。写真は昔ながらの網で漁をする日本の男性。東京、両国のようだ。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

文=Simon Worrall/訳=ルーバー荒井ハンナ

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