巨万の富を稼いだ“最後の帆船”、その栄光と闇

史上最速の帆船として活躍するなか、アヘン貿易にも加担したクリッパー船

2018.09.06
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――ウォーレン・デラノやロバート・フォーブスといった船主たちは中国のアヘン貿易で富を築きましたが、これによって数百万もの人々がアヘン中毒になり、命を落としました。船主たちはどんな人物だったのでしょう。プロテスタントの倫理観を持ちながら、麻薬取引のようなものに手を染めることについて、どう思っていたのでしょうか。そして、これが後にどのようにしてアヘン戦争へと発展していったのでしょうか。

 私の本で取り上げた船主の何人かは、上流階級にコネを多く持つボストンやニューベッドフォードの裕福な家柄の出身でした。彼らは、アヘン貿易に関しては何の罪悪感も抱いていませんでした。ロバート・ベネット・フォーブスは、強い酒を売るのと大して変わらないと考えていましたし、ウォーレン・デラノも、何ら問題のない正当で立派な商売だと書き残しています。けれども、1830年代に広東省の外国人居住区に住んでいた商人たちは、アヘンが一般の中国人に及ぼした影響について、直接見聞きすることはほとんどありませんでした。

 1838年、中国皇帝の命を受けた欽差大臣(全権大臣)が広東省へ派遣され、当時「外国の悪魔」と呼ばれていた英米の商人たちに、2万箱以上のアヘンを中国政府に引き渡すよう要求しました。商人たちが「これは私たちのアヘンだ。やれるものならやってみろ」と抵抗すると、大臣はすぐさま広東の外国人居住区を封鎖し、アヘンを川へ投棄しました。

 英国の商人たちは「軍隊を引き連れて戻ってくるからな。お前たちは、女王陛下のアヘンを没収したんだ」と言い捨てて引き揚げました。こうして戻ってきた英国軍は広東を砲撃し、町は焼き払われてしまいました。その後締結された南京条約の下、中国政府は2100万ポンドの賠償金を命じられました。これには、没収した英国のアヘンだけでなく、中国まで航海した英海軍の費用も含まれていました。条約ではさらに、中国の複数の港を西洋の貿易船に開放するよう強いられました。これによってアヘンは無制限に中国に入り込み、中国にとって「屈辱の100年」と呼ばれる時代が始まります。

――クリッパー船の建造者ドナルド・マッケイについて、本には「技術者であり職人であり、米国の英雄」と書かれていますが、どんな人物だったのでしょう。

クリッパー船の建造者ドナルド・マッケイ。スティーブン・ウジフサ氏の最新作『Barons of the Sea』は、マッケイを「技術者、職人、米国の英雄」と評している。(PHOTOGRAPH BY ALBERT SANDS SOUTHWORTH, ARTOKOLORO QUINT LOX LIMITED/ALAMY STOCK PHOTO)
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 1810年にカナダのノバスコシア州で生まれたマッケイは、1840年代にイーストボストンに造船所を開業します。ここで、カリフォルニアでの取り引きで大きく成功した大型商船を次々に作り始めます。古くからあった海洋設計のルールでは、船体(水線長)が長ければ長いほど船は速くなるといわれていたため、マッケイはこれまでのチャイナクリッパーと比較してはるかに長い船を建造しました。カリフォルニア行きの彼のクリッパー船は90メートル、リパブリック号は120メートルにもなりました。

 サンフランシスコが現代のような大都市に成長した背景には、こうした巨大クリッパー船の活躍がありました。1848~49年にかけて、金採掘者の需要が激増し、家具、椅子、テーブル、食料品、そして大量の酒類が、米東海岸から南米のホーン岬を回ってサンフランシスコへ運ばれました。おかげで、当時人口2000人ばかりの小さな漁村だったサンフランシスコは、1850年代後半には10万人を超える大都市に成長したのです。

ドナルド・マッケイ設計による米国のクリッパー船グレートリパブリック号は、当時としては過去最大の木造船だった。(PHOTOGRAPH BY NORTH WIND PICTURE ARCHIVES, ALAMY STOCK PHOTO)
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