「目的地は東京」

 1942年4月2日、空母ホーネットは飛行甲板に爆撃機16機を載せてサンフランシスコ湾を出港した。沖合で巡航艦と駆逐艦が合流すると、すべての艦に向けて通信が送られた。「この艦隊の目的地は東京である」。5000人の兵士が上げる歓声が、暮れゆく太平洋の空に響き渡った。(参考記事:「70年前の事故、第2次大戦の戦闘機」

作戦に備えてB-25爆撃機を整備する飛行甲板のクルー。同作戦は極秘で進められ、最初のうちはルーズベルト大統領も報告を受けていなかった。(PHOTOGRAPH BY UNDERWOOD ARCHIVES, GETTY IMAGES)
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 艦隊は太平洋上で空母エンタープライズと合流し、日本を目指してさらに西進した。通称「ドゥーリトル・レイダーズ」と呼ばれるようになった飛行隊員たちはその間、「私はアメリカ人です」というフレーズを中国語で言えるように練習しておくようにと命じられていた。

 日本軍は中国本土の広範囲を占領していたため、レイダーズのメンバーは味方陣営に属する中国人と、敵である日本人の見分け方も学んでいた。彼らは地図を頭に入れたり、賭け事をしたり、映画を観たり、アイスクリームを食べたり、自分たちの運命についてあれこれと考えたりしながら時を過ごした。ドゥーリトルは、自分たちが生きて帰れる確率は五分五分と見ていた。(参考記事:「CIAが歴史的な「機密地図」の数々を公開」

ドゥーリトル中佐(右から4人目)とレイダーズの隊員4名。一緒に写っているのは落下傘で着陸した彼らをかくまった中国の人々。(PHOTOGRAPH BY UNDERWOOD ARCHIVES, GETTY IMAGES)
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 出港から2週間がたち、艦隊が敵の領海に近づいたころ、天候が悪化しはじめた。波は3階建てのビルほどの高さに達した。そして4月18日午前3時、レーダーが日本の哨戒艇をとらえた。米海軍の巡洋艦の攻撃によって哨戒艇は沈んだが、艇の乗組員はすでに無線で本国へ警告を送っていた。

 事前の計画では、ドゥーリトルの飛行隊は日本から480キロほどの距離まで近づいてから発進することになっていたが、哨戒艇に発見された時点で、艦隊はまだ日本から1100キロ以上離れた位置にいた。海軍司令官らとの短い協議の後、ドゥーリトルは作戦決行の許可を得た。すぐに警笛が鳴らされ、ホーネットの艦長が命じた。「陸軍航空兵、搭乗せよ!」(参考記事:「真珠湾攻撃から75年、戦艦アリゾナを巡る物語」

 空母が激しく波に揉まれる中、ドゥーリトルが最初に発艦を試みた。空母の海軍航空士官は、甲板が上昇する力を利用して爆撃機が発艦できるよう、艦首が上下するタイミングを測っていた。ドゥーリトルはこのときのことを「まるでシーソーに乗っているようでした」と振り返っている。

日本の真珠湾攻撃から5カ月、大胆な空爆のニュースは新聞の1面を飾り、米国人の士気を大いに高めた。(PHOTOGRAPH BY BETTMAN-CORBIS, GETTY IMAGES)
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 信号を受けて、ドゥーリトルはエンジンの回転数を上げていった。同機の搭乗員が、エンジンが燃え上がるのではないかと心配しはじめたころ、爆撃機は甲板を重たげに進み始めた。「風に煽られたらどうなるかが気がかりでした」。先頭から4機目に搭乗していたテッド・ラーソン操縦士はそう語っている。「もし彼が発艦できないなら、誰にもできないことは皆わかっていました」

 空母が膨れ上がる波に持ち上げられた瞬間、ドゥーリトルの機体は甲板の端までわずか数メートルというところで空に飛び上がった。そし16機の爆撃機はすべて発艦に成功した。(参考記事:「輸送準備、第2次大戦の戦闘機」