真珠湾の報復、歴史を変えたドゥーリトルの日本空爆

1942年4月、米軍の奇襲航空部隊が敢行した大胆な任務とは

2017.04.18
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日本空爆

 5時間後、飛行隊は低空飛行で日本沿岸にたどり着いた。日本軍の機体だと思ったのか、漁師や農民が上を見上げて手を振った。空はすでに晴れていた。

 爆撃機の大半は東京を目指した。低空で飛行していた彼らは、日本の首都を守る数多くの対空砲に驚かされることになった。

 誰もが心のどこかで、日本の「ゼロ戦」が大挙して飛んでくるのではないかと考えていたが、飛行隊が目標の各都市からすばやく離脱したため、結局敵機との本格的な戦闘に発展することはなかった。

中国に不時着後、大破した自機の脇に腰を下ろすドゥーリトル。ドゥーリトルは、指揮下にあった爆撃機16機をすべて失った罪によって軍事裁判にかけられることを恐れていた。(PHOTOGRAPH BY UNDERWOOD ARCHIVE, GETTY IMAGES)
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 同作戦が行われている最中、日本の首相で陸軍大将の東条英機は、小型の公用機で空軍基地に向かっていた。公用機が滑走路に降下していく脇を、ドゥーリトルのB-25は1発の弾丸も発射せずに飛び去った。

 一路本国を目指していた空母エンタープライズとホーネットに、日本の海外向け短波放送の「ラジオ・トウキョウ」を通じて空襲に関する情報が届き始めると、数千人の搭乗員は歓喜に湧いた。

燃料切れで不時着

 ドゥーリトル隊は日本海上空で再集結し、夕日が沈んでいく西を目指した。ここまでくれば、あとは中国の領地に到達して着陸するだけだ。

 しかし夜間の着陸は昼間よりも格段に難しい。さらに悪い事に、天候が再び崩れ始めていた。(参考記事:「操縦士は依然不明、2次大戦の英戦闘機」

この村の付近に不時着後、味方陣営である中国の人々の案内で安全地帯を目指す航空兵たち。不運にも日本軍の捕虜となり、処刑された者もいた。(PHOTOGRAPH BY BY TIME LIFE PICTURES, U.S. AIR FORCE, THE LIFE PICTURE COLLECTION, GETTY IMAGES)
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 中国沿岸には高い山がそびえ、山脈は内陸まで続いている。視界はゼロで、燃料は底を尽きかけていた。滑走路を示す誘導信号はどこにも見えない。ドゥーリトルは、燃料がなくなるまで飛び続けてから、夜の雨の中へ落下傘で脱出するしかないと決意した。

 爆撃機のエンジンがプスプスと音を立て始めると、搭乗員らはひとりまたひとりと、開け放った爆弾倉の扉から何も見えない闇へと落ちていった。幸運なことに、着陸で命を落としたのはわずか3人にとどまったが、8名が日本兵に捕らえられ、そのうち3名が処刑された。残りは厳しい拷問を受けた上で終身刑を宣告された。

 ドゥーリトル自身は、人間の糞尿が肥料として使われている水田に落下した。周辺の人家をまわり、中国語で「私はアメリカ人です」と言ってみたものの、まるで通じなかった。(参考記事:「ミシガン湖で第2次大戦の戦闘機引揚げ」

 また別の操縦士は樹上に落下して、そこで1本のタバコに命を救われることになった。枝を切って地面に下りる前に、彼はまずタバコに火をつけて一服し、まだ端が赤く光っている吸い殻を下に放った。その光が闇の中をどこまでも果てしなく落下していくのを、彼は恐怖に震えながら見つめた。彼の落下傘が引っかかっていた木は、高い崖の淵に立っていたのだ。

ルーズベルト大統領は、東京空爆の計画と指揮においてドゥーリトルが果たした役割を讃えて、彼に議会名誉勲章を授与した。(PHOTOGRAPH BY BETTMAN-CORBIS, GETTY IMAGES)
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 さらに別の搭乗員は、身を隠して寒さをしのげる場所を求めて、納屋の中の木挽き台に載せてあった細長い木の箱に潜り込むことにした。ところがその箱は実は棺で、中には「非常に高齢の中国人男性」が入っていたという。

 ドゥーリトル機の5名の搭乗員は、翌日にはほぼ全員が再会することができた。親切な中国人が彼らをかくまい、安全地帯までの移動に協力してくれた。やがてたどり着いた米軍の陣地で、隊員たちは英雄として迎えられた。(参考記事:「世界を変えた航空戦「バトル・オブ・ブリテン」」

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