1942年初頭、米国は怒りと恥辱と困惑にさいなまれていた。太平洋艦隊の戦艦は、1941年12月7日(現地時間)に行われた日本軍の奇襲によって真珠湾の底に沈んでいた。(参考記事:「真珠湾に沈む戦艦アリゾナ、閉ざされた内部を調査」)
それからの数カ月間、日本軍は圧倒的な力で太平洋を進撃し、英国、オランダ、フランス、米国の領地を叩き潰していった。米国も連合諸国も、なすすべなく見ているしかなかった。
真珠湾攻撃の後、フランクリン・ルーズベルト米大統領は激怒して、日本の本土に報復攻撃を仕掛ける方法を見つけ出せと軍部の責任者らに迫った。だが、その難題の答えを導き出せる者はいなかった。
航空母艦搭載の戦闘機では小さすぎて十分な損害を与えることは期待できず、また任務に必要なだけの燃料を積むこともできない。爆撃機であれば破壊力には問題ないが、大きすぎて空母から離発着させることは不可能だと思われた。
しかし1月のある寒い日、ある人物が、比較的最近開発された双発中型爆撃機B-25「ミッチェル」であれば、空母の甲板から発進させられるのではないかというアイデアを思いついた。爆撃機を空母に着艦させることは無理だとしても、日本に爆弾を落とした後で、友好関係にある中国の領地まで飛ぶだけの燃料を積むことはできそうだった。(参考記事:「少年がナチス時代の戦闘機を発見、自宅の裏で」)
陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド大将はこの任務を、当時最も名の知られた操縦士であったジミー・ドゥーリトル中佐に任せることにした。
この時点で、B-25を飛ばせるだけの十分な経験を積んでいたのは、オレゴン州ペンドルトン基地に駐屯している陸軍航空隊第17爆撃隊の操縦士だけだった。彼らはフロリダ州ガルフコーストの秘密基地での厳しい訓練に臨んだ。全長数キロの滑走路からの離陸に慣れていた彼らは、空母の短い甲板から飛び立つという恐ろ しく高度な技術を身に付けた。一方、B-25戦闘機には追加の燃料タンクが取り付けられ、不必要な重量のかかるものはすべて取り外された。