793年、今の英国北部の島にある修道院をバイキングの戦士たちが急襲した日から、中世ヨーロッパ人にとってバイキングは魅力と恐怖の対象となった。「いまだかつて」と、ある修道僧は後に記した。「我々が今異教の民から受けているこのような恐怖に襲われたことはなかった」
どのようにして、バイキングはこれほどの恐怖心を植えつけたのか。バイキングの墓地や古戦場からは、彼らの鎖かたびら、長い槍(やり)、鋭い両刃の剣などが発掘されているが、同じような装備を持つ兵士ならヨーロッパじゅうにいた。(参考記事:「千年前のバイキングが埋めたお宝が出土、英国」)
バイキングの評判はその武器やよろいかぶとよりも、むしろ斬新な戦術と高い士気に由来すると専門家は指摘する。
例えば、バイキングは高い航海技術によって、戦略的に相手より優位に立つことが多かった。「当初、人々が最も恐れたのはその機動力でした」と、スコットランド、ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ地方を拠点に活動する考古学者、アンドリュー・ニコルソン氏は話す。ニコルソン氏はバイキング時代を再現する実験考証にも参加している。「高性能のバイキング船を巧みな航海術で操り、彼らはほとんどどんな土地にでも上陸できました」
ヒット・アンド・アウェイ
現地の領主が奇襲の知らせを受け、反撃のために配下の兵士を召集するころには、船はとっくに去った後。残されたのは死体の山と略奪の限りを尽くされた修道院、という速攻だ。
実は、バイキングが準備万端の相手と対等な条件でまみえた場合は、確実に勝てたわけではない。当時の年代記によれば、互角の激戦の戦績は五分五分だった。
だが、たとえ戦況が不利でも、北方の戦士たちは逃げずによく戦ったようだ。理由の1つは、仲間内の圧力である。バイキングの軍隊は船ごとに編成され、たいてい同じ村や町出身の男たち数十人で1つのグループを作っていた。彼ら「盾の兄弟」は夏の大半を狭いバイキング船で肩寄せ合って過ごし、奇襲をかけるはるか遠くの目的地に向けて何週間も航海した。(参考記事:「バイキングと北米先住民」)
「彼らは同じ顔ぶれで船を漕ぎ、用を足し、食べて、飲んで、戦うのです」と話すのは、ポーランド、シュチェチンに住む剣の専門家で作家のイゴール・ゴロビッチ氏だ。同氏もバイキングの戦いの再現に参加している。「同じ船のメンバーはとても親密な関係を持ち、士気はとても、とても高かったのです」