また、バジャウ族では、甲状腺ホルモンの制御にかかわるPDE10Aという遺伝子について特定のバリアント(多様体)が多く見られたが、サルアン族ではそのような傾向が見られないことも明らかになった。マウスでは、このホルモンは脾臓の大きさと関連づけられており、このホルモンの量が少なくなるように操作したマウスは脾臓が小さくなることがわかっている。

 バジャウ族の人々は、この海域で1000年以上暮らしてきた。そうした長い歳月の間の自然選択の結果、遺伝的に有利な特徴を備えるようになったのだろうとイラード氏は推測している。(参考記事:「ヒトはなぜ人間に進化した? 12の仮説とその変遷」

 米デューク大学医学部のリチャード・ムーン氏は、脾臓の大きさがバジャウ族の人々がすぐれた潜水能力をもつ理由の一つになっているのは確かだが、ほかの器官の適応も寄与しているかもしれないと指摘する。「脾臓はある程度収縮することができますが、甲状腺と脾臓との直接的な関係は知られていません。ただ、その可能性はあると思います」

 米ケース・ウェスタン・リザーブ大学の人類学者シンシア・ビール氏は、「世界の屋根」と呼ばれるチベットなどの高地に住む人々を研究している。彼女は、イラード氏の発見がきっかけになって面白い研究が始まるかもしれないと期待しているが、バジャウ族の人々が遺伝形質のおかげで潜水が上手になったと納得するためには、生物学的な数値データがもっと必要だと考えている。「脾臓の収縮力など、測定できることはもっとあるはずです」とビール氏は言う。(参考記事:「チベット人の高地適応はデニソワ人由来」

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マレーシア、ボヘイデュラン島沖でタコを捕まえたバジャウ族の漁師タルムピット。(PHOTOGRAPH BY MATTHIEU PALEY, NATIONAL GEOGRAPHIC)

海から見えてくるもの

 イラード氏は、今回の発見は、バジャウ族の人々が潜水の名手になった理由を明らかにするだけでなく、医学的にも重要だと考えている。

 潜水反応は、酸素の急激な欠乏によって起こる急性低酸素症に似ている。急性低酸素症になると短時間で命を落とす人も少なくない。バジャウ族の研究は、低酸素症の解明につながる可能性がある。

 しかし、漂海民族の生活様式は、近年、脅威にさらされている。彼らは社会から取り残され、陸上に暮らす人々のような公民権を享受することができずにいる。しかも、大規模漁業の増加により、自給自足のための漁はますます困難になっている。結果として、多くの人々が海から離れるようになった。(参考記事:「衛星で漁船を追跡、なんと海面の55%超で漁業が」

 イラード氏は、漂海民族の生活を保護していかないと、バジャウ族も、彼らがもたらしてくれるかもしれない医学的な研究も、そう長くは続かないのではないかと心配している。(参考記事:「太平洋ゴミベルト、46%が漁網、規模は最大16倍に」

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