記憶障害になると人は実際にどうなるのか

様々な能力は?創造性は?人格は?ある芸術家の例からわかったこと

2017.03.28
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ジョンソン氏は現在も絵を描いている。また、パズルを解くのも好きだ。(PHOTOGRAPH BY ILONA SZWARC)
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──ジョンソン氏の回復過程では、驚くべきことが起きたそうですね。その1つが声の変化だということですが、これはいったいどういうことなのでしょう。

 クーパーズタウンにいた頃のジョンソン氏を知る人は、締め付けられたようなかすれた声だったと言っています。しかし、もっと若いころはそうではなく、豊かな声量で堂々と話していました。感染症から回復したジョンソン氏は、昔のような話し方をするようになったのです。

 実は、ジョンソン氏はかつて身体的、精神的な虐待を受けていました。クーパーズタウンに来る前には、付き合っていた男性に首を絞められたこともあったそうです。ジョンソン氏は、彼が戻ってくるのではないかと怯えていました。締め付けられたような声は、本人が忘れたいと思っているひどい出来事のせいだったのです。そして、実際に記憶が失われて忘れたとき、ジョンソン氏は声の自由を取り戻しました。(参考記事:「子どもの頃の記憶は当てにならない?」

 神経科学者や記憶の専門家は、ジョンソン氏にかすれ声をもたらしたつらい出来事のように、ある特定の記憶を消す方法があるのではないかと考えています。脳の外科手術によってではなく、違う記憶を埋め込む、あるいは記憶を書き換えるという治療によってです。現時点で、これは倫理的に認められていませんが、実現可能だということははっきりしています。(参考記事:「脳科学と生命倫理、今後の5つの課題」

──ジョンソン氏の症例に興味を持っている科学者は多いそうですが、神経科学においてこの症例がそこまで重要な理由は何ですか。

 先ほど症例を挙げたモレゾン氏の場合、海馬が切除されたのは27歳のときでした。彼は大学には行っておらず、特別な技能や能力も持っていませんでした。そのため、記憶の基本的な機能に関することしか確認できなかったのです。しかし、ジョンソン氏は優れた知能を持つ芸術家でした。楽器の演奏、楽譜の読み方、作曲家についての知識も豊富でした。さらに、パイロットでもあったので、飛行機の部品、チェックリスト、飛行時のルールなど、たくさんのことを記憶していました。

 さまざまな技能や能力、才能を持ち合わせているので、いろいろなことを調べられます。どの能力が脳のどの部分に関連しているのか、創造性は脳のどの部分に由来するのか、記憶とともに失われない能力があるのはなぜなのか。そういったことを研究する人にとっては、ジョンソン氏の存在はとても貴重なのです。

──著書『永遠の今』では、記憶の喪失は破滅的だということに多くのページが割かれていますが、最後に、「ジョンソン氏は、失ったものがあると気づくことはないだろう。彼女にとっておそらくそれはどうでもいいことだ」と書いていますね。これは矛盾するようにも思えるのですが。

 そう、そのとおりです!(笑) 本を書き始めたとき、私はジョンソン氏のことをよく知りませんでしたし、記憶を失うことは自分自身を失うことだと思っていました。本のタイトルも、「自我を失った女」にしようと思っていました。もちろん、記憶を失うのは破滅的なことです。1人では、生活することも仕事をすることもできません。しかし、何度かジョンソン氏と会う中で、その社交的な温かい人柄や仕事を愛する姿勢に触れて感動しました。私だけでなく、彼女を知る誰もが同じように感じています。絶えず冗談を言うすてきな人なのです。科学者がやってきて実験を行うときも、ずっとみんなで笑っています。つまり、記憶を失っても人格が失われることはないのです。さらに、話を聞く限り、病気になる前の人格とも変わらないのです。

 ジョンソン氏はいつも幸せそうで、世界の美しさや人と出会う喜びに満ちあふれています。あらゆることに感動し、あらゆる人に感動を与えています。だから本のタイトルも変えました。3年間の取材を通して、かつての出来事の記憶は失われてしまっても、人間の本質はまったく変わらないことがはっきりとわかりました。

文=Simon Worrall/訳=鈴木和博

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