記憶障害になると人は実際にどうなるのか

様々な能力は?創造性は?人格は?ある芸術家の例からわかったこと

2017.03.28
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ジョンソン氏は、楽譜の読み方やビオラの弾き方を覚えている。(PHOTOGRAPH BY ILONA SZWARC)
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──自分が自分であることにとって、記憶がとても重要なのはなぜですか? 記憶を失うということは、どうしてこれほど致命的なのでしょう。

 私たちは、あらゆる状況において、適切に行動するために記憶を呼び出しています。「私が話している相手は誰なのか。この人とはどんな関係か。私は今までどのようなことをしてきたのか」というように。無意識にそうしています。今ある自分は、これまでの人生で起きたすべてのことに基づいているのです。誰かが私の両親のことについて話せば、私は即座に両親の姿を思い浮かべます。二人とももう死んでいますが、その声や言われたこと、好きだったこと、腹が立ったことなどを思い出します。私たちの毎日は、記憶と密接につながっているのです。ある意味、私とは私の記憶なのです。

──記憶をつかさどっているのは、脳の海馬という部分ですね。海馬の機能について簡単に教えてください。

 神経科学が発達する前から、人々は記憶とは何かということを探求してきました。物覚えがいい人もいれば、悪い人もいます。また、人の本質は記憶であるという考えも、昔からありました。早くから神経科学者たちは、脳のどの部分に記憶が蓄えられるのかを突き止めようとしてきました。脳のさまざまな部位を取り除く動物実験も行われましたが、なかなか成果は得られませんでした。(参考記事:「手痛くフラれた経験は忘れないのに、英単語をすぐに忘れるのはなぜ?」

 海馬は脳の奥の方にある部分ですが、当時はその役割はわかっておらず、嗅覚に関するものではないかと考えられていました。現在、海馬は心的世界や現実世界に対処する能力や、経験や視覚に関するあらゆる情報の整理にとって非常に重要な器官であることがわかり始めています。海馬の神経細胞は、視覚や聴覚、知覚、そして、ある一定のパターンで収集された情報をまとめる特別な機能を持っているようです。他のあらゆるものを統合しているのです。(参考記事:「「分離脳」だから分かった感覚のつながりとは」

──記憶の喪失に関して、歴史的に重要な意味を持つ症例の1つに、ヘンリー・モレゾン氏の事例がありますね。この症例とそこからわかったことを説明していただけますか。

 彼は重いてんかんの患者で、20代にさしかかるころには、かなり症状が悪化していました。治療の効果もなく、責任ある仕事に就くこともできず、親元を離れられない状態でした。そこで1953年に、海馬を切除するという実験的な手術を受けることになりました。海馬がてんかんの発作の原因ではないかと考えられていたからです。

 しかし、手術を終えたモレゾン氏には、たいへんなことが起こっていました。現在のジョンソン氏と同じような症状が現れていたのです。過去の出来事の記憶はなくなり、新たな記憶を形成することもできなくなっていました。医者がやってきて自己紹介し、「調子はどうですか?」と会話をし、5分後に再びその医者がやってきても、モレゾン氏は相手が誰だかわからなかったのです。

 この症例は、海馬の役割の解明につながりました。たとえば、自転車の乗り方のように体で覚えたことと、何かを思い出すときに使う記憶は別のものだということがわかってきました。仮説でしかなかった記憶の区分けも明確になりました。さらに、海馬は記憶とは密接に関わっているが、体で覚えたこととはあまり関係ないということもわかりました。(参考記事:「先端技術で見えた脳の秘密」

次ページ:ジョンソン氏の症例が重要な理由

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