写真家ルイス・マザテンタが語る兵馬俑。彼は発掘されたばかりの遺跡や遺物の姿を写真に収め、記録している。

凄惨な後継者争い

 始皇帝は聡明で強大な権力を持っていたにもかかわらず、長男である扶蘇(ふそ)に跡を継がせることができなかった。このせいで大規模な粛清が起こり、紀元前206年の秦朝の滅亡につながったと考えられている。

 紀元前89年頃に前漢の司馬遷が記した歴史書『史記』には、始皇帝亡きあとの凄惨な後継者争いの様子が描かれている。始皇帝には大勢の息子がいたが、その1人である胡亥(こがい)が宦官の趙高(ちょうこう)と共謀して後継者と目されていた長兄を殺害し、みずから帝位についたのだ。

 今日の考古学者たちは、帝位の簒奪(さんだつ)が司馬遷の説明よりも残酷だったことを示す手がかりを発見している。始皇帝陵の周囲からは、王族のものと思われる遺物とともに、数体の人骨が発見されている。その多くが男性の骨で、始皇帝の息子たちのものではないかとされている。1つの頭蓋骨は、近距離から放たれたと思われる金属製の矢じりが突き刺さっていた。専門家たちは現在、胡亥が帝位を確実なものにしようとして兄弟の王子たちを処刑したのだろうと考えている。

近距離から放たれた金属製の矢じりが突き刺さった男性の頭蓋骨。始皇帝の後継者争いの中で殺害された王子のものかもしれない。(PHOTOGRAPH BY BROOK LAPPING PRODUCTIONS)
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 始皇帝が埋葬されている墳丘のすぐそばには、100個ほどの墓が集まっている場所があった。考古学者たちはその一部を発掘してみたものの、それがなんなのか確信が持てずにいる。墓室は空っぽで、戸口付近にはバラバラにされた遺体が置かれ、真珠や金が散らばっていた。来世でも始皇帝に仕えることができるように、皇帝のすぐ近くに埋葬された側室たちだろうか? それとも、なにか忌まわしいことが行われたのだろうか?

『史記』によると、帝位に就いた胡亥は、父親の側室の多くを殺害したという。悲しいことだが、帝位簒奪者にとっては意味のある行動だったのかもしれない。彼はすでに始皇帝の後継者と目されていた長兄の扶蘇を殺害し、自分の地位を脅かすおそれのある兄弟たちも殺害していた。しかし、父親の側室の誰かが妊娠していたら?ひそかに男の子を産み、戦士として育てようとしたら? その子は将来、年の離れた兄である自分を殺して、帝位と領土を奪い取ろうとするかもしれない。

 この最悪のシナリオを考えると、胡亥には父親の側室を全員殺害する以外の選択肢はなかっただろう。ただ、彼女たちの遺体がバラバラにされた理由はまだ分からない。まだ発掘されていない墓はたくさんあるので、そのうち手がかりが得られるかもしれない。

始皇帝陵の近くで発掘された若い女性の頭蓋骨と脚の骨は、殺害された側室のものかもしれない。(PHOTOGRAPH BY BROOK LAPPING PRODUCTIONS)
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 結局、すべての流血は無駄に終わった。胡亥は父親のような偉大な皇帝にはなれなかった。彼が帝位についてからわずか3年で秦王朝は滅亡する。始皇帝の墓には、もっと驚くような財宝が眠っているはずだが、近いうちに発掘調査が行われる予定はない。繊細な遺物を不用意に空気や光にさらすと、取り返しのつかない損傷を与えてしまうおそれがあるため、画期的な保存技術が発明されるまでは、始皇帝陵の発掘は行われないだろう。(参考記事:「ツタンカーメン王墓の「隠し部屋」、迷走の真相」

 司馬遷によると、始皇帝の亡骸は青銅製の棺におさめられ、その墓室には、宮殿のレプリカや水銀の川や「珍品や豪華な品々」で満たされたという。けれども、司馬遷が『史記』を書いた時期は、始皇帝の死から1世紀以上が経過している。彼はこうしたこまごました点を本当に把握していたのだろうか?

 始皇帝が70万人の労働者や罪人を働かせて壮大な陵墓を建設したなど、司馬遷の文章には誇張と思われる箇所もたくさんある。重要な事実も書き落としているようで、兵馬俑の製作については一言も触れていない。

 しかし、若い王子による帝位の簒奪の前に大勢の王族が殺害されたことを示す証拠が実際に発見されているところを見ると、始皇帝の墓室についての司馬遷の記述も正しい可能性がある。いつの日か、考古学者たちが始皇帝の伝説的な財宝を発見する日がくるのかもしれない。

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文=A. R. Williams/訳=三枝小夜子