8400年前の赤ちゃんを発見、ベルリン近郊

これまでに9体の遺体を発掘、直立に埋葬された20代の男性も

2016.02.17
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この生後6カ月の赤ちゃんの遺体は、乳幼児の骨格としてはヨーロッパで最古の部類に入る。8400年前、狩猟採集民によってベルリン近郊に埋葬された。(PHOTOGRAPH BY RÉMI BÉNALI, NATIONAL GEOGRAPHIC)
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 数年前に発見されたヨーロッパ最古級の墓地で、8400年前の乳児や、直立に埋葬された20代前半の男性の遺体が見つかった。

 ドイツにあるこの墓地は、近隣の村の名前から「グロース・フレーデンヴァルデ」と呼ばれ、ヨーロッパに狩猟採集民が暮らしていた中石器時代のものだ。(参考記事:「欧州には青い瞳の狩猟採集民がいた」

 先日、ベルリンで開かれた記者会見によると、丘の上にある埋葬地ではこれまでに9体の骨格が発掘され、うち5体は6歳未満の乳幼児だという。まだ発掘されていない墓が複数あることを示す証拠も見つかった。

「中石器時代の墓が、一つの場所でまとまって見つかることはまれです。当時、人々はあちらこちらへ移動しながら暮らしていたからです」。発掘にたずさわった法人類学者のベッティーナ・ユングクラウス氏はそう語る。

 2013年から2014年にかけて行われた発掘調査において、ベルリンの北80キロほどの位置にある丘の上で先史時代の墓地の痕跡が発見された。丘は麓の平野からの高さが約90メートルで、頂上の土は岩が多くて硬く、墓を掘るのは簡単ではなかったはずだ。近くには水源もないため、居住地にも向いていなかっただろう。

 今回の発掘調査を率いたニーダーザクセン州歴史遺産保存課の考古学者、トーマス・テルベルガー氏は学術誌『Quartär』に掲載された論文でこう書いている。「複数の墓が偶然集まったわけではなく、ここは人々が死者を埋葬すると決めた場所です。これは北ヨーロッパにおける本格的な墓地の最古の証拠なのです」(参考記事:「ネアンデルタール人の埋葬を改めて確認」

小さな胸の上に両腕を折りたたんで

 だからこそこの場所は特別なのだと、彼の学者仲間は口をそろえる。コペンハーゲン大学の考古学者、エリック・ブリンヒ・ペーターゼン氏はこう語る。「これは大変な驚きです。狩猟採集民は通常、死者を住居のすぐ脇に埋葬します。北ヨーロッパにおいて、こうした場所は他に類を見ません」

 乳児の骨格もまた貴重な発見だ。これは過去にドイツで見つかった乳幼児の骨格の中で最も古く、ヨーロッパでも最古の部類に入る。8400年前の崩れやすい骨格は重さ300キロ分の土に埋まった状態のまま掘り出され、管理の行き届いた研究室内で慎重に発掘された。「乳児の骨は非常に小さくてもろいので、無傷のまま見つかるのは本当に異例なのです」とユングクラウス氏は言う。

【動画】8400年前の赤ちゃんの骨格を発掘する作業。骨格はドイツで発見され、保存状態がよい。(説明は英語です)

 生後6カ月になってまもなく埋葬された乳児は、小さな胸の上に両腕を折りたたんだ姿勢で、ほぼ完全な状態で保存されている。骨とその周辺の土には、埋葬の際、遺体に装飾を施すのに使われた黄土顔料の赤い色が付着している。(参考記事:「墓地に花を飾った最古の例、イスラエル」

 保存状態のよい遺体からは、豊富な情報が得られる。たとえば骨に残る化学的な特徴からは、乳児が母乳で育ったかどうかがわかる。またDNAを調べれば、墓地に埋められている他の遺体との関係や、性別も判断できる。(参考記事:「欧州人の遺伝子、形成は旧石器時代か」

 この乳児の短い生涯や死因を詳しく調べれば、古代ヨーロッパの住民たちが暮らしていた環境もわかってくる。「この子がどんな病気を患っていたのかを調べれば、死因を特定できる可能性もあります。子どもはどの時代においても、いちばん弱い存在です。環境や生活の状況に変化があったときに、最初に犠牲になるのは子どもたちです」

 子どもの墓は驚くべき発見だが、そのすぐそばで見つかった若い男性の遺体は、研究者らに大きな謎と興奮をもたらした。この男性は直立した姿勢で、骨角器や火打ち石製のナイフと共に、乳児よりも1000年以上後に埋葬されている。その骨格からは、彼がかなり快適な暮らしを送っていたと推測される。体に負担のかかる労働をしていた痕跡が見当たらないからだ。「彼は力自慢というよりも、石器を作る係か、あるいは熟練した職人だったのではないかと思われます」とテルベルガー氏は言う。

 さらに奇妙なのは、垂直に掘られた墓は当初、男性の膝の高さまでしか土がかけられていなかったことだ。彼の上半身は、墓が完全に埋められる前に一部が腐敗し、崩れている。どこかの時点で、墓の上で火がたかれた形跡もある。

農耕民族がやって来た頃の狩猟採集民

 その答えのヒントになりそうな事例が、ドイツから北東に何百キロも離れた地にある。この男性の直立型によく似た埋葬法が、現在のロシアのオレニ・オストロフと呼ばれるほぼ同時代の墓地にも見られるのだ。文化は南方から古代ヨーロッパに伝わったと長年考えられてきたが、この奇妙な埋葬法の分布は、北ヨーロッパ内でも移住や交流が活発に行われていたことを示唆している。「この男性は、そうした東からの影響を示す証拠です」とテルベルガー氏は言う。男性の骨のDNA分析の結果が出れば、そのつながりが明らかになるかもしれない。(参考記事:「ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明」

 DNA分析の途中経過や副葬品から考えると、直立型埋葬の青年は、同じ墓地から見つかった乳児と同じく、狩猟採集民であったことは明らかだ。しかし彼が亡くなったのは約7000年前である。つまりこの丘の上の墓地は、1000年以上にわたって使われていたことになる。

 青年の死は、最初の農耕民族が一帯にやって来て大陸の様相を一変させた時期と一致する。これら二つの時期が重なっていることが、南方から新たな技術と生活様式を持ち込んだ移民と最初に出会った狩猟採集民に何が起きたかを理解する手がかりになるかもしれない。「末期の狩猟採集民と初期の農耕民族は、すぐそばで暮らしていました」とテルベルガー氏は言う。(参考記事:「ヨーロッパの農業伝播は地中海経由か」

 しかし墓地から見つかった証拠は、彼らが親しい関係になかったことを示唆している。考古学者らは当時の農耕民族の居住地を、狩猟採集民の墓地からわずか10キロの地点で発見しているが、墓地からは、そこに埋葬された人々が隣人の農耕民族と有意義な接触を持った痕跡は見つかっていない。ペーターゼン氏は言う。「彼らは互いに顔を合わせていたはずですが、品物であれ遺伝子であれ、何一つ交換するには至らなかったのです」(参考記事:「湿地に眠る不思議なミイラ」

文=Andrew Curry/訳=北村京子

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