奴隷解放の父と呼ばれた米国の大統領、リンカーンが凶弾に倒れて150年。葬送列車のルートをたどり、その功績を振り返る。

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リンカーン 最期の旅

奴隷解放の父と呼ばれた米国の大統領、リンカーンが凶弾に倒れて150年。葬送列車のルートをたどり、その功績を振り返る。

文=アダム・グッドハート/写真=ユージン・リチャーズ

 エイブラハム・リンカーン暗殺事件から、今年4月で150年。この悲劇を取り上げた本やドラマは数知れない。
 大統領の突然の訃報に、多くの米国民がそれまでにない深い悲しみに沈んだ。追悼の日々を通じて、偉大な英雄が残した遺産が人々の心に刻まれた。悲劇が国家を襲った際は国中が喪に服すという米国の習慣は、この時確立されたのだ。

葬送列車を見送った米国の人々

 リンカーンの棺を載せた葬送列車は、首都ワシントンから第二の故郷であるイリノイ州スプリングフィールドまで、各地をめぐりながら数週間かけて旅をした。その途中、長い行列に並んで棺をのぞき、敬愛する大統領に別れを告げた人々が100万人はいただろう。列車を見送った人はさらに数百万人にのぼった。南北戦争で合衆国(北軍)を支持した国民のうち、ほぼ3分の1が葬送に加わったことになる。

 葬送の旅の初日、4月19日には、兵士や政府関係者、市民らが長さ2キロもの葬列をつくり、ホワイトハウスから議事堂に向かう葬儀馬車の後に続いた。数日前に南部連合(南軍)が降伏し、北部全域が祝勝ムードに沸いたのもつかの間、掲げられた勝利の旗は黒い喪章を付けた弔旗に変わった。4月21日、9両編成の葬送列車が首都ワシントンの中央駅を出発。列車は北に向かい、数分後には、つい最近まで奴隷制を認めていた地域を通過した。
 その古びた線路は、メリーランド州のフリーランドから穏やかな丘陵地帯に入り、ペンシルベニア州のニューフリーダムへと続いていた。

 二つの州の境界線「メイソン・ディクソン線」沿いには、自由や解放という意味の名をもつ町がいくつもある。だが、ほとんどは北側のペンシルベニア州に位置し、南側にあるのはフリーランドだけだ。メリーランド州の奴隷制が廃止されたのは、リンカーンの死の5カ月前。それまでは、この境界線がまるで電気柵のように、400万人の人々を自由から隔てていた。

 葬送列車が走った路線は廃線となり、今は遊歩道になっている。かつてのメイソン・ディクソン線沿いには、木製の標識やベンチがあり、その一つに腰かけると、左手が南部で右手が北部になる。境界線の面影がまったくないことに、私は不思議と心打たれた。

 弁護士でもあり、文筆家でもあったリンカーンは知っていただろうが、地球上で最も越えがたい障壁は、城壁や堀ではなく、山や海でもない。法律と言葉による境界線だ。だが、それがいかに手ごわい障壁であっても、新しい法律と言葉によって消すことができるとも、リンカーンは確信していた。だからこそ、葬送列車の旅が始まった日は終日、解放されたアフリカ系米国人が線路沿いに列をなして、棺を見送ったのだ。

 奴隷州と奴隷を解放した州を隔てる線はなくなったが、「自由」について異なる考えをもつ人たちを隔てる境界線は、今も存在している。リンカーンと南北戦争は多くの人々にとって、敵味方を分ける試金石なのだ。

※この続きは、ナショナル ジオグラフィック2015年4月号でどうぞ。

編集者から

 米国のニュースを見ていると、大惨事の際には人々が一つになって悲しみを分かち合う姿をよく目にします。国民性の表れなのだろうと思っていましたが、そのきっかけがリンカーンの葬送にあったことを、この特集で初めて知りました。すっかり観光地化したというリンカーンの霊廟の現状には、複雑な気もしますが…。せめて安らかに眠ってほしいと願うばかりです。(編集H.O)

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