水車が支えた戦前の暮らし

2019.06.28
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- JULY 2019 -

ナショナル ジオグラフィック協会 写真資料室から

水車が支えた戦前の暮らし

 大きな水車の前に仲良く並んだ子どもたち。その横には大八車と自転車、そして、左端に立った高い標識には「追分町」「髭茶屋町」「境界」の文字が見える。現在の滋賀県大津市追分町と、京都市東端にあった髭茶屋町の境界を指しているのだろう。この界隈(かいわい)はかつて「髭茶屋追分」と呼ばれ、京都へ向かう東海道と大阪へ向かう街道の分岐点だった。


 1936(昭和11)年4月号に掲載されたこの写真の説明には、「昔ながらの水車はまだよく見られる」と書かれている。政府の統計を調べると、精米や製粉といった農事用の水車は、1942年の時点で全国に7万8482台あったことがわかった。末尾至行著『日本の水車 その栄枯盛衰の記』によれば、京都府内では明治時代から昭和初期にかけて、水車の用途としては米搗(こめつき・精米)が最も多かったという。その次に多かったのは、繰り糸や撚(よ)り糸だ。丹後地方の名産品、丹後ちりめんとの関連を物語る。


 太陽の熱で蒸発した水が、雨となって山や大地を潤し、川の流れとなって水車を回す。20世紀前半にはまだ、自然の力が農業や地場産業を支えていた。「時代は回る」というけれど、自然エネルギーが暮らしの原動力となる時代は、再びめぐってくるのだろうか?

写真:BRANSON DE COU FROM GALLOWAY

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