東日本大震災から9年。この災害による死者・行方不明者は1万8000人を超え、戦後最大の自然災害となっている。だが明治時代まで遡ると、これより多くの犠牲をともなった自然災害が二度も起きていた。明治三陸大津波と関東大震災だ。
1896年(明治29年)6月15日に発生した明治三陸大津波は、115年後の3月11日に起きた津波と同じく、東北、三陸沿岸の町や人々をのみ込んだ。のちにナショナル ジオグラフィック協会の理事となる女性ジャーナリスト、エライザ・シドモアは、同年9月号でその惨状を伝えた。
三陸の海岸線は大きく様相を変えた
三陸地方を襲った津波による死者は2万6975人、負傷者数は5890人。倒壊した家屋は9313戸、打ち上げられた大型船舶は約300隻、倒壊したり沖に押し流されたりした漁船は1万隻以上にもなったという。使用不可能になった農地は数千ヘクタールにも達し、三陸の海岸線は津波の前と後では大きく様相を変えた。(編注:被害データは当時の記事に掲載されたものです)
現場は背後に高い山を控えた交通の不便な所で、電報局の施設も被災し、この大災害が東京へ伝わるまでにはかなりの時間がかかったようだ。しかし、その後全国各地から救援の物資や資金が続々と集まり、軍隊や警察の関係者、医療関係者など救援隊も続々現地入りした。
この地域は昔からよく津波に襲われてきた。だが、6月15日は気圧計は何の異常も示していなかったし、13回に及んだ小規模な地震も特に住民を驚かすようなことはなかった。この日、空模様は小雨で、気温は27~32℃と、かなり蒸し暑かったらしい。
それが突然、大音響とともに海水が民家に押し寄せてきて、一瞬のうちに人々をのみ込んだのである。
波が黒い壁になり襲いかかってきた
助かった住民の証言によると、高波が押し寄せる直前に、突然海の水が600メートル近くも沖へ向かって後退したのだそうだ。その後、波が高さ24メートルはあろうかという真っ黒い壁に変身し、打ち付けるように岸に向かって襲いかかってきたという。
生存者たちは「津波だ」と大声で叫びながら一目散に高地へ殺到した。家の2階へ避難した人も大勢いたが、ほとんどの人は結局波にのまれるか、漂流物にぶつかったりして命を落としたという。