1945年4月28日付の文書。最初の原爆投下の目標候補に挙げられた日本の都市と、選定基準の概要が書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON D.C.)
日本本土への攻撃 1945年3月に始まった大規模な対日空襲は、カーティス・ルメイ米陸軍少将が指揮した。1945年8月の終戦までに、東京を含む60カ所以上が空襲を受けた。(地図は当時の米国資料に基づき作成したもので、すべての空襲を網羅したものではありません)(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF; SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
テニアン島に到着した巨大なプルトニウム爆弾「ファットマン」。1945年8月9日に長崎へ投下された。(UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/GETTY IMAGES)
広島、長崎への原爆投下 原子爆弾は、テニアン島を発ったB-29爆撃機「エノラゲイ」「ボックスカー」によって広島、長崎に投下された。(ROSEMARY WARDLEY AND CHRISTINA SHINTANI, NG STAFF、SOURCE: ALEX WELLERSTEIN)
ジョージ・マーシャルからグローブスへの文書。大統領の許可なしに第3の原爆を投下してはならないと書かれている。(NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION, WASHINGTON, D.C.)
デーモン・コア(悪魔の核) 1945年8月にロスアラモスで作られた最後の核は、日本まで運ばれることはなかった。当初は「ルーファス」、「ダーティ・ゲーティ」などと名付けられていたが、ロスアラモスで別の実験に使用され、後に「デーモン・コア」と呼ばれるようになった。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY STOCK PHOTO)
1945年8月21日、物理学者のハリー・ダリアン(左から2人目)が核を連鎖反応直前まで近づける「臨界実験」を行っていたところ、誤ってわずかな連鎖反応を起こしてしまった。すぐに実験を中止したが、既にダリアンは被爆していた。30分後にロスアラモス病院へ搬送されたが、みるみるうちに放射線障害の症状を示し始め、1カ月近く苦しんだ末、昏睡状態に陥り、死亡した。(LOS ALAMOS NATIONAL LABORATORY)
1946年5月、カナダ人物理学者のルイス・スローティンが、科学者の集団を前にして臨界実験を行っていた。ダリアンが用いたのと同じプルトニウムの核を、球状にしたベリリウムの中へ納め、ねじ回しを使ってベリリウムの蓋をゆっくりとおろしていた。ところが、誤ってねじ回しを滑をすべらせ連鎖反応を起こしてしまった。スローティンはすぐに蓋を外したが、ダリアンよりも多い致死量の放射線を浴び、9日後に死亡した。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY)
2人の科学者の命を奪ったデーモン・コアがその後どうなったかは、確認されていない。その夏にマーシャル諸島ビキニ環礁での核実験に使われる予定だったが、スローティンの事故の後、放射能が高すぎて運搬が不可能となり、どこかにしまい込まれたままとなった。ロスアラモスの研究員グレン・マクダフは、その後溶解されて別の核爆弾に再利用され、爆発実験に使われたのではと考えているが、今もまだどこかの倉庫か原子力潜水艦の中で眠っているという可能性も捨てきれない。(NATURE AND SCIENCE/ALAMY STOCK PHOTO)
1946年3月、広島はまだ廃墟のままだった。原爆による正確な死者数を把握することは不可能だが、爆発による直接の死者と、その影響によって後で亡くなった人々を合わせると10万人に達するとみられている。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/UIG/ALBUM)
日本の降伏後、連合国は天皇を戦犯として裁判にかけることを検討していたが、ダグラス・マッカーサー元帥はこれから日本を占領するにあたって天皇が存在していたほうが日本人には受け入れられやすいと訴え、その意見が聞き入れられた。1945年9月2日、日本と連合国軍の代表は戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書に署名した。こうして天皇制は象徴として維持され、日本の統治権はマッカーサーの手にゆだねられた。1945年9月27日に撮影されたこの初会談の写真が、その2人の関係を象徴している。背の高いマッカーサーと天皇が並んだ写真は、神格化されていない天皇の写真を目にしたことのない日本国民に衝撃を与えた。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/ALBUM)