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特集

存続か廃止か
コルカタの人力車

APRIL 2008

文=カルビン・トリリン 写真=エイミー・ビターリ

も6000台の人力車が走るインドのコルカタ(旧カルカッタ)。州や市は近代化の妨げになると廃止を宣言したが、存続を願う声もやまない。

コルカタの人力車
写真家のエイミー・ビターリとともに、インドのコルカタを走る人力車と車夫たちの世界をのぞいてみよう。

動画翻訳

「コルカタの人力車」特集を担当した写真家のエイミー・ビターリです
コルカタには曲がりくねった狭い道が たくさんあります
また交通量が多いため 渋滞が起こり数キロ進むのも一苦労です
このため地域によっては人力車は不可欠です

毎年 雨季の間コルカタの街は水びたしになります
道路が胸の高さまで浸水するため交通機関はマヒしてしまいます
このような場合の移動手段は人力車のみです

コルカタに暮らす約1万8000人の車夫の大半は
インドでも特に貧しい地域であるビハール州出身です
教育を受けていない彼らには他に仕事がありません
持ち物は着ている服だけで 靴さえなく多くの車夫は 裸足で人力車を引いています
1日の稼ぎは100ルピー(約270円)ですが
そこから人力車の使用料として20ルピーを支払わなければなりません
車夫の1日は 朝5時に始まります
市場へ行き 農産物や鶏などを積み街の商店やレストランへ運ぶのです
7時頃まで こうした仕事が続きます

そして最も大切な仕事の一つが子供たちの通学の送り迎えです
人力車は単なる移動手段ではなく親は車夫を信頼し 子供を預けています

11時頃 宿舎に帰ってくると皆で食事をとります
数時間休憩した後は 再び仕事です

その後 夜中まで働きます
宿舎に戻ると狭い部屋で仲間と一緒に寝ます

そして朝の5時に起きてシャワーを浴びお茶を飲むと また仕事に出かけるのです
車夫たちは忙しく休む暇もありません
料理 入浴 車の修理 睡眠はすべて狭苦しい宿舎で済ませます
多くの車夫は 年に一度しか故郷に帰れず家族には ほとんど会えません

撮影で訪れたコミュニティです彼らはこの場所に45年間住んでいます
彼らが越してきた当時この辺りには何もありませんでしたが
その後コルカタの街は 急速に発展しました
他の車夫たちとは異なり彼らは家族で一緒に暮らすことを選んだのです

車夫の仕事は 一見辛くて非人道的に思えますが
車夫たちは 自分の仕事や顧客との信頼関係に誇りを持っています
表面だけではなくもっと内面に目を向けてみると
車夫たちは顧客と美しく深い関係を築いていることに気づきます
皆がお互いに強い結びつきをもつ社会構造なのです
今後の状況次第ではこうした光景も見られなくなることでしょう

 自家用車やタクシー、バスやオート三輪、自転車タクシー。

 これらがひしめくインド東部、西ベンガル州の州都コルカタ(旧カルカッタ)で、運転手のやるべきことはいたって単純。クラクションを鳴らしながら、がむしゃらに前に進むのだ。停止標識なんてほとんど見当たらない。「交通規則を守ろう」と、でかでかと書かれた看板は、旅行者の目にはブラックユーモアにしか見えない。大通りを安全に渡るには、できるだけ多くの歩行者にくっついていくことだ。それならタクシーもおいそれとは突っ込んでこないだろう。けたたましいクラクションが鳴り響き、タクシーか小型トラックが、自転車しか通れないような路地から急に飛び出してくる。

 そんな喧騒のなか、不意にクラクションの音が途切れると、背後からチリンチリンという鈴の音が聞こえてくる。見えてくるのは人力車だ。車を引くのはたいてい、骨と皮ばかりにやせこけたはだしの男で、力仕事にはとても向いていそうもない。車夫が絶え間なく鳴らす鈴の音は、コルカタのどんな乗り物が出す音よりもやわらかく響く。

 人口1500万人を抱えるコルカタは、今なお多くの人力車が走る唯一の大都市だと言われる。だが、市当局はそれを誇るべきこととは考えていない。人力車の車夫は貧しい人々の職業なので、コルカタで貧困や病に苦しむ人々に尽くし、1997年に亡くなったマザー・テレサの活動を否定することになりかねないからだ。コルカタのある政治家は、この町は三つのMで有名だという。マルクス主義(西ベンガル州は1977年からずっと共産党政権だ)、ミシュティ(ベンガル名物の甘いヨーグルト)、そしてマザー・テレサだ。彼女の功績は同時に、コルカタは不潔だという印象を欧米人に植えつけてしまった。コルカタの人々が、ムンバイ(旧ボンベイ)のスラム街のほうが大きいとか、コルカタほど知的かつ文化的に豊かな都市はインドに他にないなどといくら反論しても、それは変わらない。

 もっとも、どんなにコルカタびいきの人でも、マザー・テレサの活動が世界に知られるずっと前から、インド独立後の60年間、コルカタがひどく厳しい状況にあったことは認めざるを得ないだろう。1947年にインドとパキスタンが英国から分離独立した後、コルカタには東パキスタン(現在のバングラデシュ)から数百万人もの難民が流入した。

 さらに1970~80年代にも、コルカタは難民の重圧で出口の見えない状況が続いた。1971年の第三次インド=パキスタン戦争で、またも大量の難民がバングラデシュから流入。停電や雇用不安が頻発し、企業はコルカタから逃げ出し、極左武装勢力のナクサライトによる激しい暴力事件が相次いだ。ナクサライトは1960年代末、西ベンガル州農村部で起きた土地の再分配を求める農民運動に始まり、のちに学生による都市ゲリラ活動へ変化した。1985年には、当時のインド首相ラジフ・ガンジーが、コルカタは「死にゆく町」だと嘆いたほどだ。

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