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特集

岐路に立つブータン

MARCH 2008

文=ブルック・ラーマー 写真=リンジー・アダリオ

2008年に王室主導で初の民主政体が発足するブータン。伝統とバランスをとりながら、「国民総幸福量」の理念に基づいた近代化を進められるのか。

岐路に立つブータン
写真家のリンジー・アダリオが、取材で撮影した写真をもとに、近代化を進めるブータンの現状を解説する。

動画翻訳

長年 鎖国してきたブータン王国は
変化の時を迎えています
ブータンは ヒマラヤ山脈のふもとにあり
国土の大半が高地です
2008年 ブータン初の民主的選挙が行われ
絶対王制から立憲君主制へ移行します
宗教的な中心地 ブムタンの僧侶たちです
多くの人々が 子どもを僧院に行かせています
ブータンにおいて
僧院は 非常に力を持っています
開放路線に転じたブータンで
首都ティンプーは近代化しましたが――
国土の大半は 数世紀前と変わらず辺ぴです
山が多い地形のため 各地域が孤立しています
ブータンは“国民総幸福量”政策をとっています
文化や環境を保護しつつ 近代化を進める政策です
町ごとにある砦 “ゾン”は
政府機関と僧院から成る 重要な建物です
ゾンなど 政府の建物内では
伝統的な民族衣装の着用が 義務づけられています
ブータンの人口の半数は22歳未満です
若者たちの動向が
近代化の成功を占う指標となるでしょう
失業は大きな問題です
若者は都市部に集中し 雇用が不足しています
国民の3割が失業状態にあり
その多くは若者です
1999年のテレビ放映開始以来
プロレスが大変な人気になりました
“暴力的”だとして 政府は禁止を試みましたが
あまり効果はないようです
首都ティンプーにあるゴルフコースです
近年 富裕層の多くがゴルフをしています
ブータンでは 映画は非常に新しい産業です
初めて映画が作られたのは1989年でした
以来 ブータンで制作された映画は約90本
昨年は一年間で22本もの映画が作られました
最新のバーも次々に生まれています
大勢の若者たちが こうしたディスコを訪れます
欧米の影響で 認識され始めた問題もあります
国内唯一の アルコール中毒患者のリハビリ施設です
飲酒は長らく ブータン文化の一部でしたが
人々は アルコール中毒は問題だと気づき始めました
ネパール系住民は
ブータンの人口の20%を占めます
1990年代前半 政府が自国文化の保護のため
厳しい文化政策を施行した結果――
ネパール系住民による抗議行動が相次ぎ
大勢の人々が ブータンから逃げ出しました
インド人は国境を越えて 自由に出入りしています
大勢の労働者が朝来て 夜はインドへ帰ります
半年~1年契約で道路の仕事をする人たちもいます
多くは インドのビハール州から来た人々です
彼女たちも半年ほど滞在し 道路工事をしていました
これは パロとティンプーを結ぶ道路です
労働者たちの家です
半年~1年滞在するための仮設住宅ですね
ブラックマウンテンにある国立公園です
非常に辺ぴな場所で 道路も電気もありません
ブータンは 国有林の保護に力を注いでいます
国土の26%は保護林です
ブータンの少数民族 モンパ族の人たちです
こうした少数民族の人口は非常に少ないです
少数民族の多くは 国有林地域に住んでいます
外部との接触は ほとんどありません
国中の至る所に 祈とうの旗が立っています
願いを空へ届けると信じられているのです
国民の9割は 自給自足の生活を送っています
ブータン東部では ジャガイモ栽培が盛んです
老女が収穫を手伝い ジャガイモを分けてもらっています
田植えの準備です
男たちが土地を耕し 除草して――
女たちが田植えをします
ブータンは国土の4分の3が森林です
人々は森を抜けて 学校などに行きます
第4代国王は 教育に非常に力を入れました
1960年代まで 教育機関は僧院だけでしたが――
60年代以降 教育の振興が進み
国民の識字率は10%から60%に上がりました
医療も 第4代国王が力を入れてきた分野です
これは移動式の診療所です
3~4人の医者がチームになり
人里離れた村々を巡ります
こうした取り組みで 幼児の死亡率は下がり
平均寿命も過去30年で48歳から66歳に延びました
それでも人々はまず 村の占星術師を訪れます
子どもから悪霊をはらっているところです
病院へ行くのは 占星術を試した後なのです
ティンプーにある 昔ながらの病院です
アーユルヴェーダと薬草を使った療法が一般的です
このお風呂には 31種類の薬草が入っています
宗教心は ブータンにおいて最も大切なものです
この女性は 寺院の前で歌うために3カ月かけて来ました
最も重要な聖地の一つ タクツァン僧院です
ボランティアの男性が ランプに火をともしています
人々の行動は
仏教の因果応報の考えに基づいています
ブータンには 2000を超える僧院があります
僧侶の総数は とても数え切れません
僧侶たちは授業を受け 料理をし
生活のすべてを僧院の中で過ごします
僧院では 年長者が若者にさまざまなことを教えます
ワンディにあるゾンの 僧院内のベッドルームです
寮生活のような雰囲気です
修行や瞑想に打ち込むため
携帯電話の所持は禁止されていますが――
多くの僧侶は 法衣の中に隠し持っています
また 勉強時間にゲームを取り出しては遊んでいます
ブータンでは 各地に独自の祭りがあり
伝統的な踊りや儀式などが催されます
祭りは 非常に神聖なひとときです
地域中の村民たちが皆 集まります
祭りで毎年披露される踊りの習得に
一生をささげる人々もいます
観光業は 水力発電に次ぐ大きな産業です
祭りの時期には 大勢の観光客が訪れます
以上です 古都プナカのゾン
ブータンらしい風景ですね

 式典ラッパの澄んだ音色が高らかに鳴り響くと、巡礼者たちが誘われるように姿を現した。山の向こうに日が落ちて、町に影を落とす。ここはヒマラヤ山脈にあるブータン王国の首都ティンプー。これから、この日最後の儀式が始まろうとしていた。

 群衆の端のほうには、おかっぱ頭でみすぼらしい服を着た農民たちが立っていた。遠く離れた山里から三日もかけて、“都会”のティンプーまで初めて出てきたのだ。都会といっても、信号機が一つもない首都は、世界広しと言えどもここぐらいのものだろう。広場の中央付近では、僧侶たちがえんじ色の僧服を身にまとい、互いに腕を組んで集まっている。ヤシ科の高木ビンロウの実をかむ彼らの歯も、僧服と同じくらい真っ赤に染まっている。

 僧侶も農民も、町の人々も、広場の中央に立つ少年を一目見ようと押しあいへしあいしている。少年の名はキンザン・ノルブで、年齢は7歳。オレンジ色のシャツが長すぎて、ひざから下がやっとのぞくほどだ。曲が盛り上がると、ノルブは勢いよくあおむけになり、背中を軸にしてくるくると高速で回りはじめた。

 ブータンでは古くから、高僧が雌トラに乗って空を飛んでやってきたとか、「風狂の聖」と呼ばれる僧がいたとかいう神秘的な伝説に事欠かないが、このノルブ少年も高僧の生まれかわりなのだろうか?

 しかし、しゃれた白いノートパソコンをつないだスピーカーから大音量で流れてきたのは、仏教の祈りの歌ではなく、人気ラテンポップ歌手のシャキーラがきわどい歌詞を連発する「ヒップス・ドント・ライ~オシリは嘘つかない」だった。ノルブがくるくると回って手を使わずに頭だけで逆立ちすると、シャツがめくれあがり、世界のどこにでもいる今どきの若者らしい格好がのぞいた。足首まであるナイキの赤いスニーカーに、アディダスのだぼっとしたスエットパンツ。そしてブレイクダンスやヒップホップを踊る彼らのグループ名「B-Boyz」の文字が、タトゥーシールで体に貼りつけてあった。

 曲が終わると、ノルブはいたずらっぽい笑顔でワルぶったポーズを決めてみせる。仲間たちは口笛と歓声で彼をたたえた。僧侶たちはビンロウの実で赤く染まった歯をむき出しにして苦笑する。日焼けした農民たちは、口をぽかんと開けて少年を見つめるばかりだ。これが祭りで奉納される仮面の踊りなら、彼らにも理解できただろう。しかし、ノルブは不可能に挑戦するブータンの姿を体現している。伝統と近代化のバランスをとりながら、中世から21世紀へ一気に飛びうつろうというのだ。

 現地語でドゥク・ユル(雷龍の国の意味)と呼ばれるブータン王国は、面積は九州より一回り大きいほどの小国だが、インドと中国という二つの大国にはさまれながらも、千年以上も孤高を保ってきた。地理的な条件に加え、鎖国政策を長く続けてきたため、外界から隔絶されていたのだ。1960年代まで、舗装道路や電気、自動車はなく、電話や郵便制度もなかった。今でも、霧に包まれた崖に立つ古い寺院、川や森を見下ろすようにそびえる未踏の霊峰、4人姉妹を妃にめとった前国王がその一人と暮らす宮殿を眺めていると、ここは「時に忘れられた場所」という気がしてくる。訪れる人々が「最後の理想郷」と呼びたくなるのももっともだ。

 先代のジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が16歳で1972年に即位した当時、ブータンは貧困、識字率、乳幼児死亡率のどれをとっても、世界で最悪の水準だった。鎖国政策が残したお荷物だ。「その代償は高くついた」と、前国王自らがのちに語っている。

 ブータンが開放路線に転じたのは1960年代、前国王の父が第3代国王だったときだ。彼は道路や学校を建設し、診療所を開き、国連への加盟を実現した。前国王はさらに一歩踏みこんで、あらゆる面に目を光らせながら開放を進めようとした。それは、国が発展するとはどういうことかを見つめ直す機会でもあった。彼の姿勢は、彼自身が考案した「国民総幸福量(Gross National Hapiness)」という言葉によく象徴されている。

 多くのブータン人にとって、国民総幸福量はマーケティングの道具でもなければ、ユートピア哲学でもない。生きていくための具体的な構想なのだ。国民総幸福量の柱は、持続可能な開発、環境保護、文化の保全と振興、優れた統治の四つ。これらを指針としたことで、ブータンは天然資源の採取に頼ることなく、貧困から脱却することができた。

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