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特集

地球の悲鳴
嘆きのハザラ
アフガニスタンの
異端者

FEBRUARY 2008


 タリバンがよく口にするのはこんな言葉だ。「タジク人はタジキスタンへ帰れ、ウズベク人はウズベキスタンへ帰れ、そしてハザラ人はゴリスタンへ帰れ」。ゴリスタンとは墓場のことだ。実際、タリバンは石仏を破壊した当時、ハザラジャートを包囲して村々を焼きはらい、人の住めない土地にしようとしていた。厳しい冬を越せないかもしれない――ハザラ人がそんな不安におののいていた矢先、米国で9・11同時多発テロが発生した。遠い国で起きたこの悲劇が、タリバン政権の崩壊をもたらし、はからずもハザラ人の窮地を救うきっかけとなる。

 それから6年後の現在、ハザラジャートにはまだ迫害の傷跡が残るものの、希望の光も見えてきた。10年前には考えられなかったことだ。ハミド・カルザイ大統領率いるカブール中央政府の統治に変わり、いまのハザラジャートはアフガニスタンで最も安全な土地になった。他の地域とちがって麻薬の原料となるケシ畑もほとんどない。それまで大学に入学できず、公務員になれなかったハザラ人にも、次々と権利が認められつつある。副大統領のひとりはハザラ人だし、議会で得票数トップの議員もそうだ。国内唯一の女性州知事もハザラ人である。

 20年以上続いた内戦で荒廃しきったアフガニスタンだが、ようやく再建に向けて動きだしている。そのなかでハザラジャートは、ハザラ人のみならず全国民にとって、未来を象徴する存在と考える人は多い。しかし、過去の忌まわしい記憶や、進まない国土整備へのいらだち、巻き返しを図るタリバンやスンニ派過激グループへの不安が、そんな楽観論に水を差す。

 破壊された石仏の破片を集めて再建するプロジェクトも進んでいる。ハザラ人の悲惨な過去を修復する試みもそれに似ているが、ひとつ大きな違いがある。仏像なら写真が残っているから、その通りに復元すればいい。しかしハザラ人には迫害されなかった過去などない。そのため、希望に満ちた将来像を、彼ら自身も描けずにいるのである。

 28歳の青年ムサ・シャファクは、それでも未来に夢を託している。黒々とした髪を肩まで伸ばし、いかにもハザラ人といった顔だち。どことなくバーミヤーンの石仏にも似ている。薄い色のついたメガネをかけたシャファクは、赤いセーターに黒のジーンズ姿で、首都の名門カブール大学の正門前に立っていた。

 彼はあと2カ月で大学を卒業する。この国の不安定な状況を考えると、よくがんばった。ハザラ人である彼の成功は、新しい時代の訪れを告げている。シャファクはクラスでトップの成績なので、念願通りカブール大学の教職に就けるはずだ。

 「教育を受け、熱意と希望にあふれたハザラ人の若者が続々出てきています。彼らは新体制になって与えられた機会を確実につかんでいるのです」と語るのは、アフガニスタン駐在EU特別代表代理を務めるマイケル・センプルだ(2007年末、タリバンと接触したとして政府から国外退去を命じられた)。

 シャファクは、ハザラ人学生たちの組織「対話センター」の設立にも尽力した。組織のメンバーは現在150人で、雑誌を発行したり、「人道主義と多元主義」を呼びかけるイベントを催しているほか、人権団体と協力して選挙監視にも当たっている。「僕たちにはチャンスの窓が開かれています。でもその窓は、いつまた閉じるかわかりません」と、シャファクは言う。

 彼は、田舎から都会に出てきて成功した典型的な例だ。シャファクの出身は、バーミヤーン州南部のワラス郡、ハフト・ゴディ村だ。父親はそこで農作物を育てるかたわら、郡の中心部でレストランを経営していた。この地域では子どもたちが大きくなっても、村を出ることはほとんどない。多くは若いうちに結婚し、ジャガイモ畑を耕して暮らす。

 しかしシャファクは、もっとちがう人生を歩みたかった。そこで彼は、父親の手伝いをしながら、空いた時間にむさぼるように本を読んだ。小説、歴史書、哲学書、リンカーンやジョン・ロック、アルベール・カミュの著作の翻訳など、手当たりしだいに読みあさった。

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