/2008年2月号

トップ > マガジン > 2008年2月号 > 特集:芭蕉の足跡を追って


定期購読

ナショジオクイズ

フラミンゴがピンク色の理由は?

  • いつも興奮しているから
  • 食べ物から天然色素を吸収するから
  • 紫外線によってメラニンの合成が促進したから

答えを見る

ナショジオとつながる

週2回
配信

メールマガジン無料登録

メルマガ登録の詳細はこちら



特集

芭蕉の足跡を追って

FEBRUARY 2008


 1680年、門人の一人が隅田川からほど近い深川に草庵を用意し、芭蕉はそこに移り住む。翌年、別の門人から一株のバショウを贈られたことから、それにちなんで芭蕉という俳号を用いるようになった。この頃、芭蕉は心に愁いを抱え、禅を学んだとされている。1682年には、江戸の大火で芭蕉庵が焼失し、さらに陰鬱の気を深めてこう詠んだ。

 花にうき世 我が酒白く 飯黒し
  (世間は花見に浮かれているが、自分が飲むのは濁り酒、飯は玄米という、貧しい生活だ)

 1684~85年、芭蕉は9カ月かけて現在の東海・近畿地方を旅して回り、後に最初の紀行文となる『野ざらし紀行』を書き上げる。それからさらに、1687年から88年にかけて旅を重ね、それぞれの体験を『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』にまとめた。いずれも、芭蕉が得意とした散文に発句を織り交ぜたスタイルで書かれ、その詩趣に富んだ紀行文は、後に芭蕉の名声を大いに高めることとなった。

 40代半ばになった芭蕉はその頃、いまだに心の愁いが晴れないと周囲に漏らしていたという。門人や俳壇の名士たちからは句の添削や指導の依頼が引きも切らず、疲れきった芭蕉は、死ぬ前にひと目見たいと願っていた各地の歌枕(古典の和歌に詠まれた名所)を訪ねる巡礼の旅を思い立つ。

 そして1689年の3月(新暦5月)、芭蕉は弟子の河合曽良とともに江戸から奥州へと出発する。最低限の荷物をたずさえて各地の山野や村々をめぐる、総行程2400キロ、5カ月にわたる旅が始まった。情趣と魅力的なエピソードにあふれたこの旅が、傑作『奥の細道』を生みだしたのだ。

『奥の細道』につづられているのは、芭蕉の心の旅路だ。その意味では、俗世のあらゆる所有物を捨てて運命を風に任せる、出家者の巡礼にも似た漂泊の旅であった。ただし、実際の旅にはもちろん、現実的な面も伴った。俳諧の宗匠として生計を立てていた芭蕉は、行く先々で門人や支持者たちの世話になり、代わりに俳諧の極意を教授することで、旅の費用をまかなっていたと考えられる。

 この旅の数年後、芭蕉は1694年に世を去った。それから約300年。漂泊の賢者、世捨て人の芸術家、究極の旅人、高潔な聖者、幕府の隠密、悪党すれすれの大山師、そして稀代の詩人――。さまざまな人々が、それぞれの視点から、芭蕉について語ってきた。『奥の細道』には、どこか自虐的なユーモアや旅の記録、仏教に根ざした受容の精神、絵画的な描写、時には不潔な環境への不平不満までもが、自在に織り込まれている。同時に、この紀行文は旅人にとって、時空を超えた心の案内書でもある。言語学者のヘレン・タニザキはかつて私に、こんな風に話してくれた。「哲人めいた変わり者の案内人――芭蕉にはそんな風情があります。読者はしばしば遠い辺地に置き去りにされ、一人でその土地を旅するはめになるのです。ものごとを理屈で説明するよりも観察にこだわり、周囲とのつながりを強く求める姿勢が、そこにはあります」

 そして今、私もまた自分なりの芭蕉の面影を胸に秘め、その足跡をたどる旅に出ようとしている。旅路の先で待ち受ける風景は、『奥の細道』に描かれた、いにしえの日本とはいささか違っているだろう。だが、日本文学研究者のドナルド・キーンもこう書いている。「作中に描かれた場所は、どこもすっかり変わってしまった。芭蕉が最初に足を止めた千住はにぎやかな商業地区となり、最初の宿とされる草加にはマンモス団地が立ち並ぶ。それでも『奥の細道』の真髄は、そのような変化の中でも、決して失われることはないだろう」と。そして旅の道中には、今なお変わらぬ風景や古い寺社も数多くその姿をとどめ、旅人の心を往時へと誘ってくれるはずだ。なぜなら、美とは見る対象への深い洞察はもとより、孤独な自己を見つめることによっても感じとれるものなのだから。

 芭蕉は、偉大な中国の詩人や日本の歌人といった古人と、よく対話したと伝えられる。私自身も、芭蕉の足跡を一歩ずつたどるこの旅で、その魂との対話に胸弾ませて臨むだろう。旅の道中、月が望める好天を願い、ノートに思いをしたためる静かな夜に恵まれることを祈りながら。

Back2


ナショナル ジオグラフィック バックナンバー