第70回 香りは睡眠調節の名脇役?

 このように、嗅覚刺激は感情や行動に深く関わる脳部位に直接リンクしており、これは他の感覚刺激にはみられない大きな特徴なのである。現時点では確実な証拠はないものの、感情を落ち着かせる、気力を奮い立たせる強力な効果を持つアロマが存在しても不思議ではない。ただし、そのアロマは現在商品化されている「バラ」や「ラベンダー」のような心地良い、しかし効果のマイルドな既知の香りとは違うかもしれない。

 嗅覚に関わる遺伝子はきわめて多数あり、ヒトでも数百、千以上もつ動物もいる。その組み合わせによって意識的、無意識的にかぎ分けられる匂いの種類は膨大である。このように多数の嗅覚遺伝子(すなわち嗅細胞を構成するタンパク質)が存在するのは生存に必須となる餌や外敵を敏感に見分ける必要があるからである。

 私たちの行動により強い影響を与える匂い物質が見つかる、もしくは合成される可能性は決して低くない。ストレスフルな出来事があっても、寝室に香りを漂わせているだけで翌朝にはリフレッシュ! といった効果のある商品ができればすぐにでも今の職場を辞めて会社を設立するのだが……。

 嗅覚と睡眠については、今回紹介したような治療(癒やし)だけではなく、記憶をテーマにした興味深い研究も行われている。

 例えば、薔薇の香りのもとでカードの組み合わせなど記憶し、その夜に寝ている間に(ノンレム睡眠中に)薔薇の香りを流すと、目覚めた後に記憶を引き出しやすいという。この研究結果は権威ある科学誌に掲載されとても有名になった。嗅覚の神経伝達路は短期記憶に重要な「海馬」という脳部位にも連絡しているため、睡眠中に記憶を固定する際の手がかりになるらしい。

 世界は匂い(臭い、香り)に満ちている。嗅覚が睡眠に及ぼす効果は光(視覚)のように絶大ではないかもしれないが、生活に密着しているだけにジワリと効いている可能性がある。その程度はともあれ、知らぬ間に私たちの行動もアロマに影響されているのかもしれない。光が主役とすれば、嗅覚は名脇役、性格俳優といったところだろうか。

つづく

三島和夫

(イラスト:三島由美子)

三島和夫(みしま かずお)

1963年、秋田県生まれ。医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所精神生理研究部部長。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大精神科学講座講師、同助教授、2002年米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授を経て、2006年6月より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事、日本生物学的精神医学会評議員、JAXAの宇宙医学研究シナリオワーキンググループ委員なども務めている。これまで睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者を歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、日経BP社)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。近著は『朝型勤務がダメな理由』。