第35回 さよなら絨毯

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 ヨコヅナクマムシの飼育で困ること。それは、クロレラの絨毯(じゅうたん)にしがみついて離れないことだ。週に一度、ヨコヅナクマムシを新しい飼育の培地に移すときに、これが問題になる。

 そこで考案したのが、第24回でも紹介した炭酸ガス麻酔法である。オニクマムシの餌として培養していたワムシを水槽の内壁から引き離すときに用いた方法を、ヨコヅナクマムシにも応用できないかと考えたのだ。

 だが、ワムシに使った方法をそのままヨコヅナクマムシに使うことはできない。ワムシを培養していた水槽にはじゅうぶんな水かさがあったおかげで、チューブを水槽に入れて炭酸ガスを吹き込むことができた。一方、ヨコヅナクマムシの飼育培地には水がほとんどないため、チューブを水中に入れて炭酸ガスを吹き込むことができない。

 次に、別のやり方を考えた。炭酸水を飼育培地に直接かけて、ヨコヅナクマムシを麻痺させることにしたのだ。案の定、この方法はうまくいった。炭酸水で麻痺したヨコヅナクマムシは、クロレラ絨毯にしがみつく肢の力を弱めた。飼育培地の中で軽くピペットで水流を起こすと、クマムシが水中に浮いてくる。飼育培地を円を描くように回すと、培地の中央にヨコヅナクマムシが集まってくるので、彼女らをガラスピペットで回収できるのである。

 それでも、まだ問題があった。飼育培地に炭酸水をかけてピペットで水流を起こすと、どうしてもクロレラ絨毯の断片も舞い上がってしまい、クマムシと一緒に吸い込んでしまう。これでは、新しい培地にクマムシを移すときに、古いクロレラも一緒に持ち込んでしまう。

 この問題は、炭酸水をかける前に飼育培地をちょっとだけ乾燥させることで、解決した。まず、飼育培地のふたをはずして、実験室内で数時間放置する。こうすることで、ほどほどに飼育培地から水が蒸発して乾燥し、クロレラの絨毯が寒天培地の表面にぴったりと貼りつく。すると、あとで炭酸水をかけてもクロレラの絨毯が舞い上がることなく、麻痺したクマムシだけが水中に浮いてくる。洗い残しのご飯用茶碗を放置しておくと米粒が乾燥して茶碗の底にくっつき、洗ってもなかなか取れなくなるが、これと同じである。

 ただ、さらなる問題があった。炭酸水をかけるとヨコヅナクマムシは麻痺するが、しばらくするとまた復活して再び肢に力をこめてクロレラ絨毯にしがみついてしまうのである。

 炭酸水には、炭酸ガス(二酸化炭素)が溶けこんでいる。子どもでも知っていることだが、コーラなどの炭酸飲料を放置すると、炭酸はどんどん抜けていってしまう。炭酸ガスは、温度が低いほど水に溶けやすい。そこで、炭酸ガス麻酔の効果を高めるために、ヨコヅナクマムシに使用する直前まで炭酸水がはいったボトルを氷の中で冷やす。キンキンに冷えた炭酸水を用いることで、ヨコヅナクマムシをより長い時間にわたって麻痺状態にすることができた。ちなみに、ヨコヅナクマムシ麻酔用の炭酸水はイタリアのロケッタという銘柄がよい。

 新たに発明した本炭酸ガス麻酔法のおかげで、それまでは飼育培地ひとつ(500匹分)を交換するのに1時間ほどかかっていたが、その3分の1の20分ほどですむようになった。培地交換にかかる時間が短縮したことで、より多くのヨコヅナクマムシが飼育できるようになった。それは、クマムシを用いた実験をより多くこなせることを意味する。

 たかが培地交換、されど培地交換。生物の研究を進めるには、こんな地味な作業の効率化も欠かせないのである。

つづく

堀川大樹

堀川大樹(ほりかわ だいき)

1978年、東京都生まれ。地球環境科学博士。慶応義塾大学SFC研究所上席研究員。2001年からクマムシの研究を始める。これまでにヨコヅナクマムシの飼育系を確立し、同生物の極限環境耐性能力を明らかにしてきた。2008年から2010年まで、NASAエイムズ研究センターおよびNASA宇宙生物学研究所にてヨコヅナクマムシを用いた宇宙生物学研究を実施。2011年から2014年まで博士研究員としてパリ第5大学およびフランス国立衛生医学研究所ユニット1001に所属。『クマムシ博士の「最強生物」学講座――私が愛した生きものたち』(新潮社)、『クマムシ研究日誌 地上最強生物に恋して』(東海大学出版部)の著書がある。Webナショジオ「研究室に行ってみた。」の回はこちら。人気ブログ「むしブロ」および人気メルマガ「むしマガ」を運営。ツイッターアカウントは@horikawad